ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(45)

 山下永一

 平野植民地は、当初八十二家族だった入植者が、入植の翌々年の一九一七年十月には三十家族に減じていた。その頃、平野は、植民地維持を断念したことがある。残留者を呼んで、退去を勧めた。
 「オイ、お前も出んかい」
 と言われた山下永一という男がいた。
 しかし山下は「自分は、最後の一人となるとも植民地を死守するつもり」でいた。事実そのようにした。大蝗害、大旱魃、大霜害の時も「不動の鉄石心を維持していた」と、資料類にある。
 植民地は、この山下たちが再建した。。
 山下は平野より二歳ほど若かった。兵庫県人で、県の蚕種指導員をしていた。陸軍に在籍した時期があり、一九一四(大3)年、ブラジル渡航の折は、船に歩兵少尉の軍服で乗り込んできた。ファゼンダ・グァタパラに入り、八日目に平野によって、現場監督に抜擢された。
 平野植民地に移動後は、自身も発病、九死に一生を得た。が、その間、犠牲者の死亡届けを一人で書き続け、総領事館へ送り続けた。(当時、移民の死亡・出生は、その地域を管轄する日本の公館へ届けていた)
 山下は後に、植民地の日本人会会長や組合理事長を長く務めた。晩年、病気で両足を切断したが、それでも、その豪気さと聡明果断さを失うことはなかった。人から窮状を訴えられれば、高利で借りた金でも、黙って出す仁侠の士であった。一九五二年、没。六十五歳。
 平野植民地は、創立二十五周年には、入植者は百家族ほどに回復していた。内、創立時のメンバーは十家族しか残っていなかった。
 その折、編纂された記念誌で、やはり指導者の一人であった佐藤勘七は、「学校、衛生、道路、交通、産業組合と、今日を完遂するは……」「開拓面積五千四百七十五町歩に及び、珈琲壱百万本、年産五万袋を産し、邦人植民地の嚆矢の名に恥じず」「……爾来、幾多大小の植民地筍生すと雖も、概して本植民地に學ぶ所多し」
 と自負している。
 この「再建」こそ、重要であろう。
 当時の邦人社会は、平野植民地の惨劇を知っても、植民意欲を減殺させることなく、むしろ、その再建に学ぶという受け止め方をしたのである。そこに、この植民地の歴史的位置付けがあろう。
 平野の裏面は、この再建によって霞み、表面のみが風聞と想像を基に装飾されて行った。もし再建がなければ、どうなっていたろうか。
 「平野運平は、素人の役人に踊らされ、大罪を犯した愚劣な若造」
 と、罵倒され続けたであろう。
 本書の一章で触れた様に、一九六八年、南樹は受勲辞退に関しての筆者の取材の折「平野だって批判されるべき点が……」と言いかけて、口を噤んだ。あの時、続けて言いたかったのは、凡そ以上の様なことであったろう。南樹は、その著の中で、
 「平野は英雄化され、偶像化され過ぎている」
 と、結論づけている。
 悲劇の主人公という通説は、間違っているのである。

 宮崎八郎

 平野植民地が発足した頃、サンパウロ州西部、ノロエステ線ビリグイの近くで、ジェームス・メーラーという英国人が経営する土地会社が、植民地の造成と分譲をしていた。
 そのメーラーが(州中央部を南から北へ走る)モジアナ線その他のファゼンダで就労している日本移民たちが、彼の分譲地に関心を寄せていることを知った。
 そこで一九一六年、一人の若い日本人を雇った。これが宮崎八郎である。宮崎は各地の邦人を訪れて、入植を勧誘した。これは、初年度から成功した。彼はこの仕事を十八年続けた。ビリグイ地方は日本人の大集団地となった。
 ここは、さすがプロが造っただけに、平野植民地の様な初歩的な失敗は犯していない。
 宮崎は、今日風に言えば、腕利きのヴェンデドールであったわけたが、一方で、他人の面倒をよく見るので人望があった。(二〇一二年現在)サンパウロ市内リベルダーデ区のラルゴ・ダ・ポルボラという小さな緑地に、彼の胸像が立っている。

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