「彦平さんが……」
「えっ、マレッタか!」
彼女は無言で大きく頷いた。
小屋の中で彦平があの日の定一少年のように、唇を紫色に変色させてガタガタ震えている。
「彦平……!」
「兄さん」
「寒いのか?」
「うん、寒い。この世の中にこんな寒さがあるのかと思うほどだよ。体の芯まで凍えて、まるで背骨が氷でできているようだ」
彦平の言葉はガチガチと鳴る歯音にさえぎられて途切れ途切れにしか聞えない。
「今すぐ薬をやるから」
運平は慌しく大ビンの赤い封蝋にナイフを立てた。イサノは言った。
「この三日間というもの彦平さんは酷い熱でほとんど何も食べなかったのです。今朝は気分がいいと言って粥を沢山食べたけど、暫くしたら吐いてしまって、今度は寒い寒いと言うんです」
運平はそれを聞きながらアルミの匙で白い粉末をすくった。汽車の中で繰り返し読んだから、用量は暗記していた。――初日に一グラムずつ三回服用する。二日目から〇・五グラムを一日三回服用して四、五日続ける――一グラムがどのくらいの量か、薬局でサンプルを買ってきた。その紙包みを背広の内ポケットから出して見較ベながら、彼は掌に薬をこぼした。
イサノが水を持って来た。
「彦平、飲むんだ」
布団の中で海老のように身をこどめて震えている弟の上半身を抱き起して、掌で口をふせぐようにして薬をあけ、水をのませた。激しく震動している機械の注水口に水を注ぐようだった。強くコップを押えつけないと水がこぼれてしまう。
「あっ、平野さん、お帰りなさい」畑中仙次郎の声がした。(つづく)