【編集部】サンパウロ市在住の広橋勝造さんが『カルチャーショック1 ブラジルに半世紀』という連作コラムを本紙に送ってきたので、本欄に掲載する。広橋さんは《1971年、26歳でブラジルに単身移住してから半世紀が過ぎた。時の経つのは早い。半世紀に渡る時の流れで、自然にブラジルと日本の混血魂(二重人格?)となった俺、異なる2つの魂を和解させる為、心配事(ショック)が2倍になったが、生きる楽しさ(ショック)は4倍になった》と前書きで自己紹介する。
さらに《ブラジル社会で培った自己主張のシンボルである【私】を【俺】と書く勇気を頂き、難しい文法に縛られず自由に書ける様になった》との独特の作法で綴っている。以下、本人のコラムを順次紹介する。
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第1章 ブラジル定住決定
1971年4月12日、サントス港三十九番岸壁に【あるぜちな丸】接岸。小さな大学書材ポルトガル語小辞典を左手にしっかり握って上陸。
単身移住で家族なし、金なし、確かな目的なし(心の底で画家になりたかった)、友人、知人なし(同船者がいた)、恋人なし、ブラジルの身分証明書なし、しかし、大きな志を持って上陸した。
だが、ポルトガル語を理解しなければ、魂が交わらない。ブラジルに着くと直ぐに外国人向けポルトガル語教室に入った。
ヨーロッパから来た外国人達は直ぐにポルトガル語と自国語との共通点を発見し理解していった。しかし、日本語とは基礎が全く違って、女教師の言葉自体、全く理解できなかった。
6週間が過ぎた時、俺は学校(インスティトゥート・ルーズベルト校)に行くのを止めた。
ブラジル残留も諦めようかと質の悪い俺の頭をよぎった。
学費がポケットに、「おっ! ナイトクラブで遊べるぞ!」とペンション(借部屋+朝夕の食事付)から歩いて3分の距離にあった中上級のナイトクラブに押し入った。豪華なソファーに身なりのいい紳士達が座り、女の子達が群がっていた。
俺は壁に沿って目立たない様に歩き、バーテンダーの前のかなり高い椅子によじ登り、勝手が分からず、黙って居座った。
30秒位してバーテンダーが「g! okXmb! XqWWyQ?」(多分、「こんばんは!何をのみますか?」)と想像出来た。
周りを見回し、何も言わずに(言えずに)隣の男のロック・グラスを指すと、バーテンダーは空のグラスを俺の前に置き、ウイスキーを先に注ぎ(?)後から氷を入れた。
グラスを取ってぐるっと半回転して始まったショーに注目した。
3人の少し背の高い金髪女が何かを言いながら10センチ高い舞台に現れると、それだけでナイトクラブ全体に笑いが起こった。
3人の金髪女が何かを言う度にナイトクラブが(わぁ~、と)笑いに包まれるが、訳が分からない俺だけは黙ってショーを見ていた。(後で思うに、この三人の金髪女は有名な女装男優の【ホゼリア】のお笑いグループだったのでは)
やがてショーが終わりチークダンスにピッタリ合った音楽が始まった。
俺は氷が溶け、水だけのウイスキーを飲みながら、楽しそうに抱き合って踊る奴等を羨ましく眺めていると背後から「バーモス・ダンサー」と俺に声がかかった。
振り向くと少し肌が褐色の女が俺に手を差し伸べていた。
この瞬間、俺のブラジル定住が決まった――。
この女の誘いの言葉が完全に理解出来たのだ!「バーモス・ダンサー」は(ダンスしましょう)だ!
俺は何の抵抗も無く「シン」(はい)とポルトガル語で応え、初めてブラジル人と心が通じあえたのだ。この後、ダンスに没頭した。
チンプンカンプンの学校よりも、ナイトクラブでの実戦的レッスンが俺の将来を救ったのだ。
それ以来、失敗を恐れず、短期間でポルトガル語が上達し、半官半民の電話会社に就職出来た。
5、6年経った頃、久しぶりに合った同船者の竹本氏が、俺のぎこちない日本語を聞いて心配し「君、社会復帰しなくては」と言いやがった。
ダンスに誘ってくれて、朝食まで作ってくれたあの女性は、今、80歳位だろう、会って「ありがとう」を伝えたい。
あの日から、彼女とは2度と会えなかった【ロス・インディオス】とか云う日本のバンドグループと姿を消したと噂で聞いた。