ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(52)

上塚周平(Katalog, Public domain, via Wikimedia Commons)

 香山回想録に、次の様な南樹の言葉が出てくる。
 「上塚君は何一つ、事務所のことや植民地の前途に見通しとか新案の出ない男で、入植者を相手に、その場限りの慰労の言葉しか吐かない男だ。仕事となると、君(香山のこと)や僕が当たらなければならないのだ」
「上塚君は、間崎とか鎌田とか松永とか、ああした連中が好きなンだ。彼をドットール、ドットールとヘイコラする人間が好きなンだ。君や俺みたいな屁理屈言ったり皮肉る奴は嫌いなンだ」
 南樹と香山、上塚と敬愛者二派の間には、ギクシャクした空気が流れるようになった。
 南樹は植民地を出た。一九二〇年のことである。後に、その著『埋もれ行く……』の初版本に、上塚の裏面をこう暴露している。
「如何にも弱々しい姿勢ですぐ泣いてしまうが、いわゆる柳に風で、実に始末に負えない老獪なやり方」
「小金の施しは、懐にはもっとあっても、これが全部であるような顔をして、投げ出すので受けがよかった」
 本書の一章で記した様に、一九六八年、南樹は、受勲辞退の折の筆者の取材に対し、上塚とその功績といわれる植民事業を、憤懣ヤルかたないという口調で非難した。
その内容を、筆者は咀嚼できなかったのであるが、右の様な経緯を知ると、凡そのことは判ってくる。
 香山も南樹と同時期、植民地を去り、一念発起、バウルーで邦字新聞『聖州新報』の発行に取り組んだ。 
 因みにバウルーは、サンパウロ州中西部に位置し、ノロエステ線の起点であった。ソロカバナ線も通過しており、パウリスタ線も後にそうなる、急速に発展しつつあった。
 その後、香山は上塚を表面上、先輩として立てて付き合った。あるいは新聞の経営上、上塚の人気を利用しようとしたのかもしれない。例えば八五低資では聖州新報も協力した。あるいは上塚の俳句を自社の出版物の表紙に意匠代わりに刷り込んだ。
 が、恨みは忘れなかったものとみえ、老後に執筆した回想録に、上塚の恥部を次々と書き込んでいる。
 笠戸丸の船中でも、サンパウロの移民会社の事務所でも、上塚が便所から出た後に入ったら、性病処理の跡が、点々と床に残っていたという話。
 上塚が、サントスでカフェーの船積み人足をしていた沖縄県人から、郷里に送金してくれと託された金を流用してしまい、依頼者が気づくまで放っておいたという話。(その金は南樹が借りて、賭け事ですってしまったという説もある)
 植民地の基礎作りは南樹と自分がやり、上塚はピンガを呑みながら、入植者をタラシこんでいただけ……という意味の文節もある。
 その植民地で、亭主と別れて事務所用の小屋に泊まっていたオバさんに、上塚が夜這いをかけてハネつけられた、という話まで出てくる。
 香山は、自分たちが出た後、イタコロミーという植民地名が上塚と改名されたのも不快であった。
 南樹や香山以外にも、反上塚派が、プロミッソンの邦人社会に存在した……という意外な事実もある。
 筆者は先に、上塚の人気によって、その植民地や周辺地帯に多数の人が入植したと書いたが、実は、その中から反上塚派が生まれたのである。
 ここで、話は突如、一九六〇年代後半に飛ぶが、時の近藤四郎サンパウロ総領事が、プロミッソンへ出張したことがある。(一章で記したが)その時、筆者はサンパウロ新聞の新米記者で総領事館を担当していた。出張から戻った総領事に、何のためにプロミッソンへ行ったのか訊いてみたところ「向こうの邦人社会の内紛の調停に行ったが、うまく行かなかった……」と苦笑していた。
 通常なら、遠路、総領事を煩わせたということで、地元側は形だけでも仲直りして見せるものである。が、それもしなかったようだ。よほど拗れていたのであろう。
 筆者は(これは、終戦直後に起きた勝ち負け抗争の後遺症だろう)と推定、それ以上の取材は見送った。
 この抗争とは、祖国の勝敗を巡って邦人社会に起きた騒乱のことである。本書の先の方で詳述することになる。

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