彼はそこに坐り込んでハンカチで鼻をかんだ。泣いても仕様がないと思いながら、涙がこぼれて鼻をつまらす。
戸田と二人で運平は薬を配り、見舞いに一軒一軒廻った。何もしてやれない見舞いは苦しかった。運平にできることは一緒になって苦しむだけだ。そこに座り、石油のカンテラが消えていれば石油を注ぎ火を点してやり、ぐったりとした病人の手を握って力付けてやる。死んでいく人を助ける力は彼にはなかった。息を引きとる時間まで枕元にいて見守ってやるだけだった。
戸田は昼は巡回をし、夜は自分の小屋でキニーネを丸薬に丸めていた。暗い入植地を星の光りを頼りに運平はトボトボと小屋を廻った。自分の小屋に戻ると張りつめた気がゆるんで虚脱したようになるのだった。そしていいようのない悲しさ淋しさに襲われた。酒を飲まずにはいられなかった。深夜になるとあびるように 、彼は独りでピンガを飲んだ。石油のカンテラのいらだたしいほど乏しい光に映らされて 、アルミのコップがボンヤリと浮んでいる 。コップの中は真っ黒な影がわだかまっているだけだった。彼は目をつぶってその黒い影を飲み干す。
ブーンと蚊が耳許で低く鳴っていたが、彼は蚊帳へ入ろうともしなかった。
〈逃げてくれ!皆ここから逃げてくれ!〉
心の中でそう叫びつづけていた。しかし、不可能だった。体が動かない病人の群れがどうやってここから脱出できるだろう。行く処もないのだった。第一、どこかで静養する金がない。
チーチーチ……と涼しそうに鳴く地虫の声がパタッとやんだ。柔らかな足音が近ずいた。
小屋へひっそりと戻ったイサノへ、
「どうだった?」と彼は訊ねた。
彼女の従兄弟の中川逸二と妻のフクノが重態なのだった。一人息子の智も発熟していた。
イサノは黙って首を振ったが、堪えかねたようにワッと泣き崩れた。彼女は三つちがいのフクノを姉のようにしていた。二才になった智はイサノを「オバチャン、オバチャン」と呼ぶ。イサノはそんな智を可愛がって、よくおんぶしていた。たしかに可愛い盛りの男の子だった頬をつつくとすぐ笑うのだった。
イサノの鳴咽は運平の胸にキリのように刺った。こんな処へ連れて来た男を非難しているようだった。彼は再びピンガを注いで呻った。カンテラの光がグラッと揺れた。
二月二十八日の夜十一時に、日高卯平の妻ウキが死んだ。まだ二十五才だった。
翌日三月一日に葬式をした。集まれる者は少なかった。(つづく)