小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=83

 謙蔵は両の掌でかかえて茶碗を運平の方へ差し出したが、相手の硬ばった表情に気付くと、ギョッとしたように横を向いて、寝ている妻を見た。
「……」
 茶碗を持つ手がブルブルと震れはじめた。
「クノ……お前……」
 謙蔵はふらふらと妻の傍に近付いた。
「あ、あ……あ」
 茶碗が落ちて死んだクノの胸にわずかの米が散らばった。まだ軟らかい乳液のような半固体だった。とても臼などではつけない。謙蔵は一粒一粒爪でモミをはがしてやっと茶碗の底にたまるほどのものを集めたにちがいなかった。
「クノ……クノ…:。お前が死んだら俺はどうするんだ。静加と二人で熊本へ帰るのを楽しみにしていたじゃないか」
 かきくどく謙蔵の耳に静加が空腹を訴えるか細い声が入ったのだろう。謙蔵は妻の胸にこぼれた新米の汁を指先ですくっては静加の口へ運んだ。その指が震えて赤ん坊の口へとどかない。熱の発作に襲われたのだ。運平は謙蔵の腕に両手を添えて静加が吸いやすいようにした。
「お母さんのお乳だぞ」
 運平は静加にそう言いかけながら泣いた。
 その晩、通夜をした。翌日、葬式だった。謙蔵たちの熊本県玉名郡の出身者は多いのだが、誰も動けない。米崎加賀須と糸永俊三が棺をにない、前浜三松が謙三を背負って墓地に行った。
 帰って来ると運平はいつもよりずっと多く酒を飲んだ従兄弟一家三人が重体なのでイサノはほとんど戻らなかった。空腹を覚えて台所を覗いたが、冷えた鍋の中にウドン粉のかたまりの沈んだ汁があるだけだった。暖めて食べる気にもなれず、それをレオンにやって運平はサツマイモの葉の煮付けを肴に意識がなくなるまで酒を飲んだ

……目覚めると、ひどく喉が乾いていた。彼は服を着たまま寝ていたのだった。起きて戸外に張り出した庇の下の台所へ行って水をゴクゴク飲んだ。イサノが夕食の仕度をしていた。西の空が毒々しいほど赤く染まって森が燃えているように見えた。三月三日は一日中寝ていたらしかった。
「誰か来たか」
 彼はイサノに訊ねた。
「坂井さんと久保さんが来ました。沖田初太郎さんの弟の彦五郎さんと吉武さんの守ちゃんが死んだそうです」
「……」
「それから前浜圭作さんも死にました」
「ちょっと行って来る」
 運平は下駄をつっかけて外へ出た。
「夕食は……」
 イサノの声が迫ったが彼は返事をしなかった。昨日の午後から何も食べていないが食欲はなかった。
(つづく)

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