ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(56)

 二人は永田と同県人で、三十歳前後だった。
 輪湖は松本中学を中退、米国に渡り、邦字新聞で働いていた。が、ブラジルに転住、レジストロ植民地に入った。暫くしてそこを出、サンパウロで日伯新聞を金子保三郎という愛知県人と起こし、編集を担当した。しかし金子とウマク行かず、半年ほどで辞めてしまった。        
以後、日本との間を往き来し、移植民事業に関わる様になった。永田とは日本への帰国中に知り合った。
 北原地価造は、上伊那農学校卒で一九一七(大6)年に移住、やはりレジストロ植民地に入っていた。
 永田が日本から着いた時、二人は、移住地用の適地を見つけてあった。
永田は現地を実見、買うことを決めた。ところが、そこで死線を越える思いをし、以後神憑りに近い精神状態になってしまったという。もっとも、この人はクリスチャンであったが……。
 死線を越える思いとは、土地の購入費が、信濃海外協会から届かず、それが届いたら、今度は以後の所要資金が送られて来ず、苦しみ抜いたことを指す。長途の旅の疲れによる発熱も加わって、衰弱ぶりは痛々しいほどであった。
 この購入費は片倉が算段し、所要資金は時の長野県知事が、
「国家百年の計に身を捧げて、万里の異郷に使いせる者を、見殺しにはできぬ」 
と、県の予算を流用して送金した。
 片倉は長野県内の一僻村の小さな座繰り製糸場から財閥にまでのし上がった企業である。片倉兼太郎・今井五介兄弟が経営していた。二人は永田の支援者であった。
 ともあれ、右の様な経緯があって入手した土地はアリアンサ移住地と命名された。
ここには、最初に北原が夫人と同志の一家族と共に乗り込んだ。露営し、往時風に表現すれば「千古斧鉞の入らぬ原生林」に挑んだのである。仮住まいの小屋には、夜間、名もしれぬ獣が近づくことも珍しくなかった。
 道づくり、測量、区画割りなどの準備が済み、信濃海外協会で分譲した。すると購入希望者が多く、在米邦人にまで広まるという勢いだった。一、二年で全部売り切れた。
 これは大新聞で広告する一方、永田自身が先頭に立って、各地で説明会を開いたところ、中産階級の人々が興味を持ったためであった。昔からの移民斡旋業者を通しての募集では、こうは行かなかったであろう。
 売れ行きの良さに気をよくした永田は、さらに鳥取、富山、熊本の三県を誘い、隣接地に県別の移住地を次々、建設させた。
 鳥取の場合は知事白上佑吉を説いた処「それは面白い。ぜひやろう」と応じ、直ちに県の有力者に諮り、海外協会を設立、資金を集めた。この白上が、間もなく富山県知事に転任、ここでも同じことをした。
この両県の移住地は、信濃海外協会が共同事業として参加した。
 熊本分を含めて、三県の移住地は次の通りである。
◇鳥取県海外協会・信濃海外協会=第二アリアンサ移住地。四、八〇〇㌶。
◇富山県海外協会・信濃海外協会=第三アリアンサ移住地。七、二〇〇㌶。
◇熊本県海外協会=ヴィラ・ノーヴァ移住地。二、九〇〇㌶。
 いずれも、日本と米国で分譲、ほぼ全部を売り切った。これが一九二六、七年のことである。
 第一アリアンサを含め、この四カ所はアリアンサ移住地と総称されることになる。総面積は約二万㌶である。(ヴィラ・ノーヴァを別扱いする場合もあるという) 
 アリアンサの入植者は、それまでの移民とは違っていた。力行会の関係者が編んだ小冊子によれば、北大を出て遺伝学の研究に渡米していた園芸技師、米国の鉱山の工夫監督、朝鮮総督府の鉄道技師、宮内庁に三十年勤務の高等官、東大法卒の高等文官、陸軍主計大佐、造船技師、橋梁の専門家、郡会議員、村長、郵便局長、校長、教員、会社員、食堂経営者、裁判所の代書人、剣道家、相撲取り(十両)……といった前歴の持主がおった。
 米国からの転住者の中には、音楽家や男装の婦人までいた。この人々が荷物を解くと、ピアノや英語の書籍が出てきたとか、移住地では森の中の広場で婦人たちがテニスに興じる姿が見られたとか、過半はキリスト教徒であるとか……それまでの移民には無かった豊かさ、文化の臭いを漂わせた。

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