小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=85

 朝、目覚るのが運平は怖しかった。今日は誰も死にませんように、と心から祈った。家は浄土真宗であるが、さほど信心深くもない若者だったのに、何かに祈らなければ朝起きられなかった。
 運平の祈りを無視して翌日の九日も三人死んでいった山下ムメの妹の寺田スエと、西ハツエの夫の卯八郎と、国崎音平の娘のヤエ子だった。
棺を作る板がもうなかった。ノコギリで板を引く体力のある男もほとんどいなかった。
ヤエ子は柳行李に納められた。紐で十字にしぼってある。運平は黙ってその紐をほどくと行李のふたを開けた去年の九月に産れたばかりの赤ん坊だった。
「なむあみだぶつ… … 」
沢山の子が死んでいく。マラリヤ病菌に対する抵抗力がないのだった。
彼があけた行李を覗いて母親が再び泣き出した。その声が運平の神経をズタズタに切り裂いていく。彼は必死になって地蔵尊の姿を心に念じた。せめて死後、救われて欲しかった。運平がふたを閉じると音平がその行李を抱いて力なく歩きだした。その妻と、鍬を持った運平との三人だけの淋しい行列だった。
 翌日(十日)静加が死んでしまった。
 このごろ運平は七時頃目覚める。グァタパラ時代は四時に起きて皮ゲートルを付けていたものだったが、夜遅くまで酒を飲んでいるので、どうしても朝が遅くなる。
酔いつぶれないと目がさえて眠られないのだ。
 五時半に太陽が森の向うからのぞくと、まるで高跳びの選手のように一気に中天に駆け上ってギラギラと輝くだから涼しいのはほんの朝の一刻だった。
 熱がなくて動ける人が稲をとり入れている。刈った稲の穂を四国の出身者は千歯でしごいた。九州者はしのい(叩い)だ。
 一日働けば十俵はモミにできる。それを水車小屋で玄米にする。今度は自分のウスで精米にする。
 半日つけば家族の一週間分の食いぶちの精米ができる。
 病気の合い間の労働だからそれほどの能率は上らなかった。炎天下で働くと、体力が消耗した。それが病気には最も恐しい。しかし、働かなければ食う米がとれない。
 生命力と熱病とのギリギリの闘いだった。
運平が薬を配っていると、米崎青年が
「平野さん!」
 と呼びに来た。
 彼は謙蔵と同じ熊本の玉名郡出身で隣の小屋に住んでいる。死の報せにちがいなかった。
「静加が死にました]
「… … やはり駄目だったか」
 運平は小走りに駆けだした
(つづく)

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