ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(58)

 輪湖についてはすでに触れた。
 畑中は兵庫県人で、東京外語のスペイン語科を出、一九一二(大正元)年に移住、平野植民地に入った。この話の時点ではサンパウロの日本総領事館に勤務していた。
古関は北大出で、一九二五(大14)年に渡航、サンパウロ、パラナ両州で植民地や原生林の実態調査をしていた。
三人は移住地用の適地探しのため、奥地の原生林地帯にある候補地を踏査した。日数は計二百九十一日を要し、旅程は七万㌔以上になった。ある時は丸木舟に発熱四〇度の身を横たえ、またある時は蚊と蚤に攻められつつ茅屋で夜を明かした。
 その結果、入手した土地は、そこに建設された移住地の名で表示すると、以下の通りである。
▼バストス移住地=三万一、〇〇〇㌶。
サンパウロ州西部。
▼チエテ移住地=一一万五、〇〇〇㌶。
サンパウロ州西端部。
▼トゥレス・バーラス移住地=四万五、〇〇〇㌶。パラナ州北部。
 計一九万一、〇〇〇㌶。
 いずれも、非日系を含めてブラジルの植民地史上、前例の少ない広大さであった。
これを日本で海外移住組合を通じて、
分譲した。ブラジルの邦人にも解放した。
 三移住地の入植者は一九三九年までに、合計三千二百家族、二万三、〇〇〇人を数えることになる。
ちなみにアリアンサでは北原地価造が、その生涯をこの移住地建設に捧げることになるが、バストスでは畑中仙次郎が、その役割を担う。
輪湖俊午郎は、チエテ創立時の現地責任者となった。古関徳彌はブラ拓職員となり、後にチエテの支配人を務める。
アリアンサに次ぐこの大型三移住地の登場により、邦人の植民事業は最盛期を迎えた。
 しかし日本政府は何故、突如この種の──現代風に表現すれば──ナショナル・プロジェクトに着手したのだろうか? これも答えは「背景」の項に譲る。

 邦人農業者を支援

 一九二七年、前章で触れた様に、日本政府は、苦境に在った邦人のカフェー生産者を救済のため、八五低資の融資を実施した。(政府が保証して銀行が融資)
 同年、やはり前章で記したコチアのモイーニョ・ヴェーリョの邦人農業者たちが、産業組合を創った。コチア産組である。
 モイーニョ・ヴェーリョの邦人は、百家族ほどに増えていた。主産物は当初はバタチーニャであった。が、種芋の精選や新品種の導入、肥料・農薬の利用により、大粒のバタタ、つまり今日見られる様な馬鈴薯へ改良しつつあった。そのバタタの生産者=バタテイロ=八三人が、組合に参加した。
 コチア産組発足までの経緯は、別章で記すことになるが、バタテイロたちを踏み切らせたのは、日本政府の産組設立奨励金である。これがサンパウロの日本総領事館を通して出た。
 この奨励金により、コチア産組だけでなく、以後、アチコチで、邦人農業者が産組をつくる。
四つ目の「新しい動き」である。
 では何故、政府は八五低資や奨励金を出したのか? 
 この点についても「背景」の項に譲る。

 財界も……

 同時期、五つ目の「新しい動き」が生まれていた。日本の財界が対ブラジル投資を始めたのである。
 その先鞭をつけたのが、実は前出の片倉であった。
 一九二四年(大13)年、モジ・ダス・クルーゼスで三六〇㌶の土地を入手、茶を植え始めた。
 その二年前、農業技師を派遣、マット・グロッソ州で養蚕を試みようとした。が、上手く行かず、モジで新たな事業に転じたのである。
 片倉はその経営者の一人、片倉兼太郎が一九二二年、ブラジルを訪れたことがあった。独立百周年記念祭へ東京商業会議所が派遣した使節団の一員として……である。その帰国後、直ちに右の如く動いている。
 さらに東京商業会議所の会頭で使節団の団長だった山科礼蔵が、一九二六年、同志と共に、パラナ州北部、通称北パラナに二万四、二〇〇㌶の土地を買った。同志とは片倉のもう一人の経営者今井五介、その他である。
 彼らは、東京に南米土地㈱を設立、その名義で購入、管理は海興に託した。
 北パラナは、当時の一資料の表現を借りれば「一九一〇年代までは、赤裸の蛮人シャヴァンテス族が跳梁する神秘境の趣があった」という。
 その原生林の下には、地味豊沃な土壌テーラ・ロッシャが広がっていた。(つづく)

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