小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=86

 左足の下駄が木の根にひっかかり、彼は転倒した。倒れたとき、切株の先で切ったらしく、起き上ると右手の掌から血が出ていた。
 丁度近くを通りかかった戸田がすぐ手当てをした。看護卒出身だけあって、怪我の手当ては鮮やかなものだった。目にもとまらぬ速さでホータイを巻き、しかもあとで崩れないのだ。
 運平はジャトバの大木目指して駆けた。
空袋をはねて小屋に入ると謙蔵がひどくボンヤリと上半身を壁にもたせた姿で座っていた。小さく縮んだ赤ん坊がそこにいた、そっと手を当てると体は冷たくなっていた。
 二カ月前に運平がここに座って産れたこの赤ん坊を眺めたときには、この一家にまだ暗い影はさしていなかった。両親は働きに出ていて、赤ん坊だけがスヤスヤと寝ていたのだった。それで「静加」と彼は名付けて女児の前途へのはなむけとしたのだった。
 あのとき、すでに彼女の顔には死の予告のように一匹の蚊がとまっていた。
 「可哀そうに… … 静加」
彼は声にだして呟いた。この赤児だけは何とか育てたかった。クノに済まない。
 運平は視線をあげて父親を見た。謙蔵キョトンとしていた。悲しみで虚脱しているのだろうと思った運平が再び静加の死顔に目を移した瞬間、
 「アハハハ……」
 笑い声が響いた。
 ギクッとした彼は謙蔵を見た。肋骨をヒクヒクさせて謙蔵は笑っていた「ヒヒヒ…ハハ」
 口からよだれが流れていた。
 「狂ってしまいました」
 後から入って来た米崎が低い声で言った。
 「いつからだ」
 「二、三日前からおかしかったです」
 高熱が続いた為に脳神経が痛んだようだった。
 「埋葬の仕度をしておいてくれ」
 米崎に頼んで運平は外へ出て深呼吸をした。深く息をしたとき、右手がズキズキと痛んだ。膝もしたたかに打ったらしく痛い。ゆるんだ鼻緒を引きずるようにして彼は河口繁雄の小屋へ行った。小屋には誰もいなかった。彼は墓へ行った。五、六人の人影が立っていた。娘のハヤ子が死んだのだった。茶箱に納っていた運平はぬかずいて合掌してから蓋をあけた。赤い可愛いい日本着を着せられて、髪にリボンがついていた。グァタパラで産まれた子だ。
(つづく)

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