父母の移住
今年また全伯剣道大会では高段者団体選、有段者個人戦共に福博剣道部所属の林隆一くんが優勝の栄誉を飾った。林隆一くんは父親が3世、母親が2世、従って3世半というところであろうか。福博剣道の礎である林義宣さんの孫である。
この林隆一くんが所属する福博剣道を語るのに、林義宣さんをおいて語ることはできないであろう。林義宣さんは独学でものにした日本語の読み書きも達者な2世である。
昭和の初期1939年3月、父重幸、母房枝は農業を営んでいた郷里の香川県坂出町(現坂出市)を後に、幼児の長男と長女を連れて、アリゾナ丸でブラジルへ移住した。途中長男は船内で発病、上陸後に亡くしている。
林さんの両親は、長女を連れて最初リベイロン・プレット市の近く、フォルツーナ駅サンタルシア耕地に入植した。その後ソロカバナ線の奥アルバーレス・マッシャードに移転、1939年4月16日、林義宣さんはそこで生まれた。
やがてアルバーレス・マッシャードから約3キロの地点に10アルケールの土地を借地し、馬鈴薯、落花生、棉などを生産、コチア産業組合に加入、出荷するようになった。その頃には次女以下5人の子供が生まれ、林義宣さんを含む6人の子どもができていた。
が、当時の移住者がそうであったように、子供たちは10歳にもなると家事を手伝い、おとなに混じって農作業に従事した。林さんも例外ではなかった。よって就学したのは10歳までで、その後はおとなと一緒に野良に出て働いた。まだ思春期にも満たない子どもの手に、鍬を持ち、棉を摘んで家族を助ける労働の一助となっていた。
第2次世界大戦で、祖国日本が敗戦したその当時、この国は連合国側についていた。従ってこの国の日本人は敵性国民とみなされ、心ない弾圧を受けていた。日本語学校は、強制的に閉鎖され、日本語で話す事も禁じられた。
しかし、日本語教育に熱意ある林さん一家の居住区では密かに日本語教育が続けられた。山の中の小屋でひっそりと地域の子供たちが集まって、自身のまた父母の祖国語を学んだのである。林義宣さんの日本語習得の原点がそこにあった。
青年期〜剣道に出会う
その後、林家はサンパウロの近郊のスザノへと移転。「福博」という豊かで博識あると言う部落名の通り、養鶏業を営む篤農家として揺るぎない存在となっていった。そこから林義宣さんの剣道への出会いがはじまったのである。
そこには、福博剣道の礎を成した人、欠かす事の出来ない谷口又夫さんの存在があった。谷口先生は、戦時中陸軍の少年飛行兵として、南方方面を転戦した経歴を持つ。戦後、関西大学国文科を卒業、剣道の師範をしていた。が、狭苦しい日本を出たいと日本の生活に見切りをつけ、1957年この国に移住、福博村に移り住んだという異色の人である。福博村では日本語学校で日本語を教え、その傍ら経験のある剣道を教え始めた。それが福博剣道の始まりであった。谷口さんは5段で練士、33歳であった。
移転した福博村にも日本語学校があった。林さんはその日本語学校の夜学に通った。昼間は家族の中心となって養鶏業に汗を流し、夜は日本語学校へ通った。林義宣さん17歳の時である。そこで林さんは谷口又夫先生に出会い、勧められて剣道を始めることになる。
剣道を始めたきっかけ、それは子どもの頃からの農作業という労働のせいか姿勢が悪く腰も曲がっていた。そんな林青年を見た谷口先生から「剣道をやってみろ。姿勢が良くなるぞ」と言われた。それが林さんの剣道との出会いとなったのであった。
週3回剣道の稽古が行われることになった。竹刀は、谷口先生自ら竹藪から竹を切って作った。当時の日本語学校の床はすり足をするには難しい煉瓦であった。防具は剣道部ができるにあたって村から寄贈されたわずか5組。当初から剣道を始めたのは20名。5組の防具を交替で使い、時には取り合いになることも有った。防具の寄贈は、剣道には縁の無い異国ブラジルということを考えれば、剣道に対してたいへん理解の有る村であった。
林青年は昼間の仕事を終えると13キロの道程を休むことなく稽古に通った。みんなが寝静まった夜、500本、千本もの素振りに励んだ。千本と一口に言っては簡単だがそれを毎日欠かさず続けることは容易なことでは無い。しかも昼間は働いているのだ。大変な努力である。野球選手のイチローが「天才という言葉は無い。努力あるのみ」と言った。まさにそれを実行した。
筆者は林義宣さんの長男の幸男さんを学生の頃から知っている。ヴィラ・マダレーナの高台にあった我が家のアパートからは、はるかかなたのサンパウロ大学のキャンパスが良く見えた。昼食後に大学のキャンパスを見ていると、一人の学生らしき青年が階段を駆け昇り駆け下りる動作を繰り返している姿が見えた。林幸男さんであった。
おそらく傍で見ると、息を切らしながら汗を流しながら足腰を鍛えているであろう。学友が雑談をし、芝生に寝転んで休んでいる時間を、剣道世界大会にむけて、大学の講義の合間の時間を惜しんでのトレーニングであった。
その年、幸男さんは世界大会のブラジル代表チームの一員であった。幸男さん始め代表剣士たちのチームのなみなみならぬ努力の甲斐があって、その年の世界大会では強豪日本チームに次いで2位という好成績をおさめたのであった。
ちなみに冒頭の林隆一くんは、幸男さんの長男である。まさに子は親を見て成長したのである。
林義宣さんが1957年に剣道を始めて10年後から全伯大会の有段者の部で毎年優勝、6回続けて優勝している。その頃から福博剣道部は揺るぎない存在になっていった。林義宣さんは剣道を始めた頃は、ただがむしゃらに勝てば良いだけの思いであったと述懐する。
最初は、がむしゃらに勝つための剣道であったが、谷口師匠の指導のもと武道として竹刀を交えるごとに、剣道の真髄を学び、礼儀を学び、人間形成の道をつくるものであるのだと習得していくうちに、林さんの剣道は技術的にも一段と冴えたものになっていった。
当時の林義宣選手と福博剣道はすさまじいものがあった。全伯勝ち抜き大会での優勝、ロンドリーナ、ペレイラ・バレットなど26道場での百七十余りの大会に出場。またエクアドル、メキシコなど14もの外国へ、国内ではレシーフェ、マセイオなど13の道場へ指導に赴く。世界大会へはイギリス、日本の札幌へは選手として、京都へは団長として参加している。林義宣さんが27歳から28歳の頃の脂ののった頃である。
こうした経験と努力が実を結び、やがて後輩の指導にあたる存在となっていった。1979年には7段を取るまでになっていった。
指導者としての谷口先生の成果
谷口先生が始めた福博剣道部の最初の稽古場は日本語学校であった。そこは床が煉瓦であったため、すり足もままならなかった。その後、稽古場は新装なった福博青年会館に移された。ここの床はコンクリートであったが煉瓦の床に比べれば多少はすり足もできるようになった。
やがて谷口先生は日本語学校の教員を辞めて、スザノ市内にあった金剛寺の住職となり、谷口先生の力添えで寺の本堂で稽古ができるようになった。よって、床の問題も解決された。
日本の高野山へ修行に行き、寺の住職となった谷口先生は、かなりの霊力もあったようで、先生の祈りの力によって救われた人もかなりの数にのぼるとの事である。住職になるための修行で、訪日中の谷口先生の後を継いで後続の指導にあたったのが弟子の林義宣さんであった。林さん48歳、6段であった
林さんは温厚篤実、気の長い人であった。その指導方法は決して叱ることは無く、勝つための剣道ではなく、一刀を生かすにはどのようにしたら良いかを、後続剣士たちに気長に根気良く伝授したのであった。
林さんには1966年に娶ったオルガ夫人との間に男子ばかり4人の子息がある。4人ともすでに子持ちで60歳近い年齢に達しているが、幼少の頃から剣道を学んでいる。4人の子息の剣道歴と職業を紹介してみよう。
【長男 幸男】
全伯大会で3回優勝、世界大会へ5回出場、7段。世界大会審判員。歯科医。幸男さんには周囲から日本へ行って、8段の試験を受けではどうかとの声があがっているが、本人は至って謙虚で、まだまだその器ではないと、断り続けている。
剣士として、7段までは努力と鍛錬によって、なんとか獲得することは出来るが、それ以上の8段をとることは神技と言っても良い至難の業である。8段を審査する人の目はきびしい。受験者には技術のみに拘らず、生活する人としての人物像、人間性なども心眼と言っても良いきびしい審査員の眼によって査定されるのである。それを心得ている幸男さんなのである。
現在、幸男さんは世界大会の審判員として歯科医の仕事の合間に世界中を飛び回っている。一男一女の父。ふたりとも父幸男さんの指導のもとに幼少の頃から剣道を学んでいる。
二人の試合歴は長女由紀さんは全伯大会少年女子の部で3年連続優勝、現在は女医として多忙のため中断している。
長男隆一さんは全伯大会幼幼年の部で2年連続優勝、全伯大会幼少年の部で3回優勝、全伯大会有段者の部で2回優勝、2024年第41回有段者の部で優勝。各道場主催の大会での優勝数は多いため割愛する。2018年の世界大会にブラジルのもっとも若い選手として出場。
【次男 勇次】
世界大会へ1回出場。4段。コンピューター関連企業に勤務。現在剣道は中断しているが、頭脳労働者としてまじめ一方の人。すでに大学生の2人の子息の父である。
【三男 義男】
南米大会で2回連続優勝。世界大会4回出場。5段。サンパウロ大学工学部を卒業後、日本で会社勤務。多忙な日本での生活、やはり剣道は中断している。
【四男 順次】
世界大会へ2回出場。7段。全伯剣道大会を対象に「形」を指導。福博剣道部総務。長兄幸男さんと同じ歯科医の道を歩んでいる。二男一女の3人共剣道を学んでおり、好成績をあげている。
長男勇一さんは全伯大会幼少年の部で2回優勝。次男賢治さんは全伯大会幼少年の部で3回優勝。長女、アユミさんは全伯大会幼幼年、幼年の部で4回優勝。
幸男さんはじめ4人のどの子息も武道の猛者とは思えない温厚で謙虚な人柄を持つ。
時代の変遷の中で
このように、福博剣道が人材を擁し立派な成果をあげることができたのは、週3回という稽古量の多さと林さん親子の指導力のもとに、剣士たちの努力と真面目さにあったと言えるだろう。
しかし、残念なことに、福博村独自の剣道部は存在しなくなっている。今まで金剛寺の本堂を借りて稽古をしていたが、そこも狭くなり、森会長に勧められてスザノ文化体育農事協会(ACEAS)に移されることになり、名称もACEAS福博と呼称されるようになった。
さらに、1980年代の不況下により福博村の衰退が余儀なくされたことによって、福博村から転出する人が多くなった。子どもたちの高齢化、農業は継がれず、卒業後は都会の地へと就職して出て行く人も増えていった。
従って、一時は50人前後の剣道部員がいたが、現在では25人の在籍となっている。その中で、ブラジル人剣士が15名在籍している。
剣士の数こそ少なくなった現在であるが、日本の伝統文化である剣道の精神と武道は親から子へ、子から孫へ、そしてブラジル人へと確実に受け継がれているのである。
これは、ひとえに創始者谷口師と林義宣さんの努力と力によるものであることを、決して忘れてはならないであろう。
(参考資料=香川県人の家族調査、外山脩著、剣道『日本』編集部著)