一九三四年、日本酒製造のため、東山酒造㈲を設立。
ほかにも、二、三の事業を起こした。
これらを総称して東山事業所といった。
東山は、前記したように社会奉仕を眼目としていた。だから、次の様な逸話が残った。
東山農場の山本が、カフェー以外に紅茶の生産を企て、ジャワから種子を取り寄せた。それを蒔くと見事に育った。ところが、これを東京で知った久彌から、ピシャリと中止命令が届いた。
曰く「ブラジルは、コーヒーによって成り立っている国である。紅茶はコーヒーの敵対物である。東山は紅茶を作ってまで、金儲けをしなくてもよい」
また、東山農場が日本酒を造ったのは、この国の邦人が火酒ピンガで健康を損なうのを憂慮して……のことであった。平野運平や上塚周平だけでなく、ピンガの害に犯される者が多かった。
「飲むナ、と言っても無理であろうから、害の少ない日本酒を味わうのが良かろう」
ということで、日本から技術を導入して生産した。
ただ一時期、ピンガもつくっていた。矛盾するわけだが、日本酒を醸造する施設でピンガもできるので、資金繰りを潤沢にするため、そうしたのである。ピンガは日本酒に比較して利益を出しやすかった。
ところが、日本から視察に来た(前出の)坂本が、これをみつけ、幹部社員たちに大きな灸をすえた。
なお、カーザ東山がカフェーに力を入れたのは、これが邦人の主産物だったためである。後に綿も主産物になると、そちらにも力を注いだ。邦人の援護になるという動機からであった。
これには邦人は喜んだ。頼もしかったようだ。前章で登場した平野植民地などは、随分とカーザ東山の世話になっている。
平野運平の死後のことであるが、植民地の産組創立時に、カフェー精選工場の施設購入のため助力を受けた。
さらに、第二植民地を造ることになり、その土地を買う時も、資金融資を依頼した。これには、最初はカーザ東山も「定款上、無理」と回答した。が、植民地側が粘りにねばるため、君塚が日本々社の承諾を得、カーザ東山が一旦その土地を買収、入植者に分譲するという便法で応じた。
東山のことは、この辺でひと区切りつけて、日本の財界の対ブラジル投資に話を戻す。
一九二八年、関西では屈指の実業家であった川西清兵衛が設立した日伯拓殖㈱が、ノロエステ線アヴァニャンダーヴァに一、二〇〇㌶の土地を購入、カフェー園や牧場を造った。バーラ・マンサ農場である。
同年、東京で南米拓殖という株式会社が設立された。アマゾンの東部パラー州での事業を計画していた。主力株主は、当時、一流会社といわれた鐘淵紡績であった。その社長で著名な経営者だった武藤山治が、この南拓を創立した。現地代表として派遣されたのが「武藤が何か事業を起こすときは、いつも福原を起用する」といわれた福原八郎(重役)である。
福原は調査団を率いて、パラー州を訪れ、州政府から計一〇三万㌶のコンセッソンを受けた。アカラの六〇万㌶で植民地建設を、モンテ・アレグレの四〇万㌶で農場経営を、その他三万㌶で鉱物資源の開発をするという計画であった。
一九三一年、台湾の実業界で活躍していた後宮信太郎の息子武雄が、北パラナで七〇〇㌶の土地を入手、農場造りに着手した。
ところで、日本の企業の進出というと、笠戸丸以前の藤崎商会のことは一章で記したが、その後は、一九一九年の横浜正金銀行のリオ支店開設があったのみである。それが、この一九二〇年代中頃から、右の如く次々と進出している。しかし、この種の現象は簡単に起こり得ることではない。どうして起こったのか? この点についても、恐縮ながら、やはり「背景」の項に譲る。
拓殖事業家も……
「新しい動き」はまだあった。六つ目
のそれである。
アマゾンの西部アマゾーナス州へ、日本人が次々と現れたのである。その頃流行っていた言葉を使用すれば「拓殖事業家」であるが、要するに、以前の植民事業家であった。いずれも一風変わった人物だった。