《寄稿》私の人生を大きく変えたキューバ革命=夢にも考えていなかったブラジルへ=サンパウロ州ピラシカーバ市 安藤晃彦

東大農学部卒、放射線による植物遺伝育種専攻

 私は92歳で、ブラジルに移民して65年になる。人間誰しも人生の終焉が近づき自らの過去を振り返ってみる時、必ず自分の人生を大きく変えたに違いない出来事がいくつかある筈である。
 私の場合は、その一つはキューバ革命であったと確信している。
 私は高校時代から海外志向を抱いていて、クラスの雑誌に将来の希望として、〝海外から日本を眺めること〟と書いた覚えがある。その後、1958年に東京大学農学部を卒業したが、専門は原子力平和利用の一環としての、放射線に依る植物遺伝育種であった。これは、放射性原子から出るいろいろな放射線を使って、植物に種々の人為突然変異力を起こさせ、その内から良いのを選び出すという新しい植物育種研究分野であった。
 当時の日本は、1964年の東京オリンピックを前にして戦後からの復興途上にあり、今から見ると想像もつかないほどの貧乏国であり又未曾有の就職難の国でもあった。最も人気のあった上級国家公務員の初任給は当時僅かに9600円、1ドル=360円の公定レートで換算すると何と30ドルにも満たなかった。キリンビールに就職した一同期生の給料は1万2千円(40ドル足らず)で皆に羨ましがられた記憶がある。
 大学卒業後も私は研究副手として月6千円(16ドルちょっと)の手当を研究室から貰いながら、海外に行くチャンスを狙っていた。しかし時々持ち込まれた話は、主として東南アジアからの農業指導者或いは農学研究者の派遣要請であって、これらには当時有り余っていた浪人中の大学院修了の修士(マスター)、博士(ドクター)が応募優先採用され、単に学部新卒の私にはお鉢すら回って来なかった。そうしている内に、1958年の半ば頃、キューバ視察から帰って来た先輩から、キューバ政府が文部省直轄の農場勤務研究員を求めているとのニュースが耳に入った。
 大学院卒浪人に奪られないことを願いながら、当時東京の麻布にあったキューバ領事館を訪れた所、幸いに応募者は私一人で大いに安堵した次第であった。その後はキューバ領事館を頻繁に訪ね、ロドリゲスという名の領事の知己も得て、次第に良い感触を得るようになった。私もスペイン語四週間という本を買ったりして、少しずつスペイン語の勉強を始めた。

キューバ渡航準備中に「ハバナ陥落」の報

1961年、チェ・ゲバラとフィデル・カストロ(Alberto Korda, Public domain, via Wikimedia Commons)

 年が明けて一月も終わりかかった頃、何気なく新聞朝刊を見ると、〝ハバナ陥落、キューバ革命成る〟とあるではないか。当時のキューバのバチスト政権はアメリカが後押ししていたこともあって、まさか敗けるとは夢にも思っていなかっただけに吃驚仰天、早速キューバ領事館にロドリゲス領事を訪ねた所、既に領事館は2台の立派な外車ともどももぬけの殻で誰一人居らず、あの時の落胆ぶりは一生忘れないであろう。
 ちょうどその時、気落ちしていた私を見て、高校時代の友人が「自分の伯父の知人がブラジルに居るから、ブラジルに行ってはどうか」と声をかけてくれた。私が当時ブラジルに関して抱いていた知識といえば、世界一大きいアマゾン川があり、日本人移民が多く住んで居て、マラリアが猖獗している国ぐらいのものであった。
 しかし、世界地図を見ると、キューバもブラジルも大西洋に面していて、地図ではそんなに遠く離れてはいないように見えたし、キューバに行く代わりにブラジルに行くのも大して違いはないと安易に思い込み、夢にも考えて居なかったブラジルに舵を変えることに決めた。この舵取りで、私の人生は大きく変わった訳である。早速今度はポルトガル語四週間を購入してポルトガル語の勉強を始めた。

外貨50ドル持ってブラジルへ

 当時ブラジルに行くのは、技術者の証明さえあれば割合と簡単であった。旅行社に調べてもらった所、ブラジル行きの移民船ブラジル丸が6月4日に横浜を出帆するとのこと、それまでの4カ月間は、渡航準備その他で目が回るほどの忙しさだったが、こうして将に渡りに船とばかりブラジル丸に乗り、考えても夢にも思っていなかった未知のブラジルへと、当時の許可最高額の持ち出し外貨50ドルを懐にして旅立った次第である。
 この貴重な外貨も、船中で貧乏留学生に泣きつかれて「アメリカに着いたらすぐに返す」という約束で20ドルを借したので、残り僅かに30ドルであった。勿論今になってもこのお金は返ってこない。
 40日間に及ぶ船内生活は、私は船長から船内新聞係を任命されていたので、今考えると割合充実したものであった。取材と称して船内どこへ出入りしようとお咎めなし、新聞記者の醍醐味を満喫したのは私の人生で後にも先にもこの時だけである。
 この時、ただ一人サントスに迎えに出て呉れたのが、高校時代の友人の伯父の紹介による、当時サンパウロで手広く八百屋を経営していた移民一世の方であった。
 いくらなんでも所持金30ドルでは手も足も出ず、彼の家に二週間ほど、生まれて初めての居候う生活をして大変な迷惑をかけた。しかしせめて居候う代の一部にでもと思って、私は暇を見ては中学生の息子さんの数学を見てあげた。
 彼は、私のその後の永いブラジルでの教師生活を通じての教え子第一号であり、現在はブラジル日本文化福祉協会で活躍中の山下譲二氏であるが、真にご同慶の至りである。

日本の大学給与は16ドル、ブラジルで700ドル⁈

 やがて私はサンパウロ中心のカンブシ地区にあった日本人下宿に移り、昼間は数軒かけ持ちの数学の家庭教師をやり、生活が安定したところで夜は外国人向けのポルトガル語学校に通うことになった。こうして一年が経ち私も何とかポルトガル語が理解できるようになり、本格的な職探しが始まったが、当時のブラジルは技術者にとっては売り手市場であって、職探しにはあまり苦労をしなかった。
 ややあって、ピラシカーバという町の州立農科大学遺伝学科で、放射線遺伝学の新しい講座を開くにあたり専門の研究職員を探しているというニュースが耳に入り、それが私の日本での専門の研究分野でもあったことから興味を抱き、その遺伝学科を訪れてみることにした。ピラシカーバは今でもそうであるが、緑の多い閑静な又学校の多い町でもあり、更に農科大学は一千ヘクタールという日本では想像もつかない広さを持っており、私は一目でこの大学が気に入った。
 当時の遺伝学科主任教授はナチスからブラジルへ逃れて来たユダヤ系ドイツ人であったが私に興味を持ち、ポ語、英語、独語を交えた面接雑談の後、割合簡単に採用が決まった。初めは特別奨学生として奨学金を貰ったが、それが当時のドル換算では何と700ドルで、日本ではたったの16ドルちょっとしか手にしていなかったことを思い出すと、将に雲泥の差であった。その後、農業原子力センターが大学内に創設され、私も微力ながら協力を惜しまなっか。
 こうして私の長い研究者、教員としての生活が始まり、70歳定年までの40数年間に亙ってブラジルでのこの新しい研究分野の普及と、学部大学院を通して数多くの人材育成に多少なりとも貢献出来たことは幸いである。

安藤氏の業績を報じるプラネッタ・アロイス・サイト(https://planetaarroz.com.br/arroz-mutante/)

 長い人生を振り返った時、「もしもあの時…」と云う言い方はあまり意味がないかも知れないが、それでも敢えて言うと、キューバ革命が私の人生の一つの主な分岐点であったことには間違いない。もしキューバに行っていたら、政府側の一員として或いは銃殺されていたかも知れない。
 又ブラジルへ行くのを夢見ていた妻と知り合うチャンスは金輪際ありえずゼロ、そうなると現在の息子娘四人、可愛い孫五人もこの世には存在しないことになる。又、ブラジルでの教師冥利に尽きた大学教員研究生活や社会生活を通じて、多くの友人知人を得ることもなかった。
 こうして見るとキューバ革命は、多くの人々の人生に色々な影響を与えたであろうが、それに隠れた一人の私の人生をも根本的に変えた出来事であった。その変化がプラスであったろうかマイナスであったろうかは知る由もないが、少なくともブラジルにとってはプラスであった事と信ずる。

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