さて、前項までに記した一連の「新しい動き」は、何故起きたのか?
その答えを求めようとして、最初に気がつくのは、総ての動きが一九二〇年代中頃から三〇年代初めに集中していることである。偶然によるものとは考えにくい。相応の背景があった──と観た方が自然である。その背景とは何だったのか?
それを考えるために、まず、この動きの内、注意すべき部分を簡単に箇条書きしてみる。
◇政府関係
移民の船賃の全額補助を決定。海興が移民から徴収していた手数料も肩代わり。
道府県の海外移住組合とその連合会の設立を主導。
同連合会へ大型移住地の建設資金を融資。
カフェー生産者に八五低資を融資。
産組設立奨励金を支給。
◇道府県
長野など四県がアリアンサ移住地を建設。
殆どの道府県が、海外移住組合を設立。
◇財界
財界の有志が、各地で大・中規模の土地を取得、入植地を建設、ファゼンダを経営。
◇拓殖事業家関係
アマゾーナス州で、拓殖事業家たちが開発拠点を確保。
以上から判るように、日本の政府、道府県、財界そして拓殖事業家が一斉に動き始めている。
これには、そういう動きを発生させる何かの力が働いた筈である。
当時の年表を捲ると「一九一八年、第一次世界大戦終了」とある。
戦争、特に世界大戦ともなると、驚異的なエネルギーを発する。それは地球規模の超巨大な津波の様なもので、連鎖的に世界の隅々まで無数の大波、中波、小波を派生させる。
大戦中、世界経済は特需景気に沸いた。特需品の生産国では、工場が増設・増産を続けた。しかし戦争が終ると、その反動が起こり、一転、需要は収縮、製品は過剰となり、大不況と大混乱が襲った。
生産国の中でも特に大戦景気を謳歌した日本では、企業の倒産・事業縮小の嵐が吹きまくった。この大不況は間接的に農村にも波及した。
都市・農村を問わず、失業者や困窮者が洪水のように発生、労働者・小作人の争議が頻発した。それが社会不安を煽った。
ロシア革命(一九一七年)の影響もあり、左翼思想が流行、これに対抗して右翼団体が続々結成され、対立した。
一九二一(大10)年には、首相の原敬、大物実業家の安田善次郎の暗殺事件が起きている。
そして一九二三(大12)年、関東大震災!
情勢は悪化に次ぐ悪化を続けていた。その対策に政府は苦慮していた。追い詰められていた。そこに窮余の一策として浮かび上がってきた策が、海外移住である。
これは、狭い国内に充満する鬱積感の捌け口ともなる。勿論、総人口に比較すれば、ごく僅かの移民を送り出したところで、根本的な解決にはならない。(総人口=一九二〇年、大正九年現在五、六〇〇万人)
が、息苦しさに堪えられなくなっている社会にとって、風穴ていどの役割は果たす。
しかし、最大の移民送出先の米国では、実は、かなり以前から排日=日本移民排斥=の気運が生まれ、強まり、決定的な段階に入っていた。
一九二四年、上下両院で日本移民の受入れを事実上禁ずる法案が成立したのである。
既述した永田稠の南米一巡も、それに対処するためであった。輪湖俊午郎のブラジル転住も、排日に嫌気がさしたからであった。アリアンサ移住地の区画を在米邦人が購入したのも、同じ理由による。(前章で触れた西原清東の場合も、そうだった)
米の日本移民受入れ禁止の直後、日本政府は、ブラジル移民の船賃全額補助や手数料の肩代わりを決めた。
つまり、米国を諦めブラジルへ乗り換えようとしたのである。
しかし、前章で触れた様に、移住には植民が伴わなければならない。
同時期、永田稠のアリアンサ移住地の建設が着手された。それに長野、鳥取、富山、熊本各県の県庁が協力したのは、大不況下、県内に充満する鬱屈した気分を散らし、社会不安の深刻化を防ぎたかったからである。
当時の道府県庁は内務省の傘下にあった。政府は四県の県庁の動きを認め、注視していた。
アリアンサ移住地が順調にスベリだすのを見た政府は、四県だけでなく、ほかの道府県もブラジルでの移住地建設に参画させようとした。