そのため一九二七年、道府県庁に──民間との協力の下に──海外移住組合を設立させ、東京にその連合会を置いた。さらに連合会へ資金を融資、大型移住地を建設させることにした。
やはり一九二七年、政府は八五低資を融資、産組設立奨励金の支給を開始している。
八五低資は、救済を訴える現地の移民を見捨てては、移住熱を殺ぐと政治的に判断したからである。
産組設立奨励金は、移民は小農からの出発で非力であり、組合は不可欠であると判断したことによる。
一九三二(昭7)年になると、政府
はブラジル移民に、支度金まで出すことになる。移住熱をさらに盛り上げるためであった。
財界の動きは、自主的な部分もあったが、政府の要請も加わっていた──と読んだ方が納得し易い。時期が政府のブラジル移住奨励開始と一致しているか
らだ。
他にも、幾つかの材料がある。
鐘紡の南拓の場合は、発足に際して、首相兼外相の田中義一が、渋沢栄一ら有力な財界人を招いて、出資を要請している。
山科礼蔵の南米土地会社は、北パラナに入手した土地の内、八割を邦人に分譲して、政府の政策に付き合おうとしていた。
日伯拓殖、つまり関西の川西グループの場合も「国策に付き合って……云々」という記述が、古い資料類の中にある。
野村は、その総帥の野村徳七が、これ以前から海外発展を唱え、ボルネオやスマトラで農場経営をしていた。
ブラジル投資に関しては伊藤陽三という人物が介在している。
伊藤は三井物産の元社員であった。一
九二三年渡伯し二年間、広く農業事情を調査した。しかる後、カフェー園経営を企てた。しかし資金がなかったため、日本へ行き出資者を探した。人の勧めで大阪に行って、伝手を頼って徳七と面会、一〇万円の出資を頼んだ。
一カ月後、回答があった。
「一〇万円ではなく一〇〇万円出しましょう。ブラジルに野村のコーヒー農場を建設してください」
当時の一〇〇万円といえば大金である。しかし、如何に海外事業に熱意を持っていたとはいえ、初対面の人間の話に乗って、そんな大金をポンと出すなど、常識的にはありえない。
しかるに何故出したのか。その理由に関しては資料を欠く。
が、この時期、徳七は政府から対ブラジル投資の要請を受けていた、と仮定すると疑問が解ける。
なお右に記した様に、財界の投資は入植地の建設ではなく、ファゼンダの経営の場合もあったが、それも直接・間接に移民のためになった。
例えば、そのファゼンダでの就労であり、日系社会の経済力の強化である。
財界の協力に関しては、次の様な話も伝わっている。
ある時、三井、三菱の使者が永田稠の力行会を訪れ、かなりの額の寄付金を置いて行った。
余りにもウマ過ぎる珍事だった。普通なら、寄付を求めて先方を訪問しても、門前払いか担当者に体よくあしらわれて終わりであったろう。
しかるにこんなことが起きている。
その理由が、霧がかかったように判りにくい。しかし、これは三井、三菱に、政府筋から何らかの話があったと仮定すると、霧が晴れてくる。
当時、力行会は(信濃海外協会を通じての)アリアンサ移住地の建設や移民の送り込みで、政府の対ブラジル政策に貢献していた。が、資金繰りは苦しかったという。
アマゾーナス州で拓殖事業に乗り出した上塚司が、現地の調査費用を政府や財界の寄付で賄ったことは既述した。が、財界に対しては誰か政府筋が口をきいた、と仮定すると納得し易い。
上塚は、拓殖学校やアマ産もつくっており、相当の資金が要った筈である。それも財界に頼ったと観てよかろう。
政府は、対ブラジル政策を進めるについては、初めから、財界の協力確保を織り込んで、根回しをしていた筈である。
予算には限りがある。それを補充するために、頼りになるのは財界しかない。先の大戦で大儲けもしている。(戦後、大不況が襲ったが、蓄積した利益を守り通した企業も多くあった)
次に、アマゾンのような「日本人には保健上、危険地帯である」と、かつてペトロポリスの公使館が反対した所まで、対象にした点については、これまた、それなりの経緯があった。(つづく)