その頃、首都リオの国会に、排日法案が提出され、一方、アマゾンでは、逆に二つの州政府が「日本移民導入策」を打ち出していたのである。
これには、初代日本大使の田付七太が深く関わっていた。
排日法案が提出されたのは一九二三年で、田付の着任後、間もなくのことである。これが通称レイス法案である。
この法案の詳細については、次章で取り上げるが、米国が日本移民受入れ禁止に急傾斜していた時であり、田付も「マズイ!」と思ったであろう。その成立を阻むため懸命になった。問題は長期化、結着がつくまでに数年を要したが、幸い法案は成立しなかった。
田付は、その間、日本移民がサンパウロ州に偏在することの弊害に気づいた。そんな時期、一九二五年、アマゾンのパラー州のジオニジオ・ベンテス知事から、同州開発のため日本の協力を得たい、という要請が寄せられたのである。早速、本国に打電した。
以下、暫く先に触れたことと一部重複する
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田付から報告を受けた日本政府は、当時ブラジルに関心を寄せていた鐘紡の武藤山治社長に、引受け方を打診した。
その結果、翌年、福原八郎を団長とする調査団が現地に派遣された。田付も、これにベレンで合流している。
かくして一九二八年に至り、鐘紡の子会社として南米拓殖㈱が東京に設立され、翌年、ベレン市に現地会社が置かれた。
旧公使館の方針をヒックリ返したのは、その後身の大使館自身だったのだ。
田付は、パラー州訪問の折、西隣のアマゾーナス州も訪れた。これを歓迎したのが、エフィゼニオ・サーレス知事で、パラー並みの恩典を供与するから、開発に協力して欲しいと要望した。田付も強い関心を持ったが、急なことで、話はそれ以上進展しなかった。すでに帰朝命令を受けていたことにもよる。
この時 田付に随行していた大使館嘱託通訳の粟津金六が、一九二七年、実業家の山西源三郎と共に同地を再訪、州知事との間で一〇〇万㌶のコンセッソンの話をまとめ上げた。
その粟津が日本へ行き、山西と共に出資者を探したものの見つからず、上塚司に協力を求めた──と、そういう前後関係だったわけである。
かくの如くで、一九二〇年代に発生した一連の「新しい動き」は、大戦後の大不況と社会的混乱、米の日本移民受入れ禁止……などの大逆風の中で「日本政府が打った国策」プラス「民間の自発的行動」によって起きたということになる。
これは、ブラジルの日系社会には幸いした。その歴史が興隆期に入ったのである。
御三家とその顔
一九三〇年代、サンパウロの日系社会で御三家という言葉が、よく使用された。次の三カ所のことである。
ブラ拓 海外移住組合連合会の現地法人
海興 海外興業㈱の支店
東山 東山農事㈱の子会社
東山の代わりに日本総領事館を入れる場合もあった。
御三家と呼ばれるようになった謂われはハッキリしない。邦字新聞の記者が、主な取材先としている内に、そう呼ぶようになったという説もあり、また別の説もある……と、当時を知る先輩記者から聞いたことがある。
いずれにせよ、三機関の──日系社会の新時代を切り開いてくれそうな──指導力への期待が込められていた。
ただ、ブラ拓は日本政府の国策機関、海興と東山は進出企業であった。移民独自の機関は含まれていない。農業者たちが産組を作っていたが、まだ非力と観られていた。
その御三家の一つブラ拓はバストス、チエテ、トゥレス・バーラス三移住地の建設に取り組んでいた。
同時にアリンサ移住地の経営のブラ拓への移管も進めていた。
実は、アリアンサの創立者永田稠は、この移住地の建設を進める過程で、それが如何に困難かを認識、政府に助力を求めていた。同時期、海外移住組合連合会・ブラ拓が設立された。助力をするとすれば、ここを通して……ということになるが、それは法的問題が生じて難しく、経営移管ということになった。
見様によっては、取られた様なものだが、永田も信濃海外協会も、それに応じている。移住地と入植者のためには、やむを得ないと決断したのであろう。