小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=93

 畑中が言った。
 「わしは行かん。おろしてくれ」
 「駄目です」
 「行かんぞ。わしだけ行かれぬ」
 大声をだされて畑中たちは仕方なく彼を小屋へ連れ戻した。
 「平野さん、キニーネを飲んでください」
 戸田が棚の小ビンから白い丸薬をだした。
 「ピンガをくれ」
 「…」
「早くくれ」
 イサノが仕方なく酒をとった。それをグッと飲んで、
 「おい、どうしたんだ。皆、不景気な顔をして。一緒に飲んでくれ。畑中飲めよ、グァタパラで毎晩のんだように、楽しく飲んでくれ」
 運平は二杯目のコップを口に運んだ。手が震え始めていた。カチカチと歯がアルミに当って鳴った。
 「寒い……寒いぞ」
 こぼれたピンガがアゴを伝わった。
 堪えきれず、彼は身をこごめた。まわりの人々は消えて行き、真白な風景の中に独りになった。雪が霏々と降っているのだった。そこを裸で歩いている。
 〈ここはどこだろう?〉
 凍えながら彼は思った。知っている風景のようでもあるし、まるで知らない処のようでもある。日本であることは確かだった。しかし、彼の故郷の静岡ではない。静岡なら松が必らず目につくはずだった。
 雪は深々と彼を埋めようとしていた。イサノが布団を掛けてくれているのを、意識の一方で感じていた。だが自分は雪の中だ。凍え死ぬかと思ったがやがて雪は融け始めた。ブランコに垂っているようだった。四辺が揺れていたが。そのうちにゆっくり廻り始めた。黒い雲が湧いては渦巻いて彼の五体を翻弄した。
 何かが重くのしかかっていた。彼は夢中でそれを払いのけた。汗をびっしょりかいている。暑い……苦しい……
 どのくらい続いたろうか……。寒さも暑さも、苦しさも黒雲も、妖術師のまやかしのようにあとかたなく消えた。(つづく)

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