ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(67)

 その邦人の九三㌫が、サンパウロ州内に居住していた。モジアナ、ノロエステ、ソロカバナ、奥ソロカバナ、パウリスタ、パウリスタ延長、サントス──ジュキア、アララクアラなどの各鉄道の沿線、そしてサンパウロ市内である。
 残り七㌫が、パラナその他各州に散在していた。
 職業は九二㌫が農業、残りが商工業その他であった。
 入植地(小入植地、植民地、移住地)は三百六十カ所を数えていた。もっとも──ブラ拓や海興のそれは別として──一カ所の入植数は殆どが数十から百数十家族であった。それ以上だと、指折り数えるほどしかなかった。公共施設なども未整備な所が多かった。
 所有地は、一般の移民のそれの合計は二四万㌶。神奈川県と同じ広さだった。
 ほかにブラ拓や進出企業など法人の所有地が三〇万㌶。(コンセッソン方式が主で、未だ地権確保の確定ケースが無かったアマゾン方面は除く)
 主作物の筆頭はカフェーで、移民の所有樹数は五、〇〇〇~六、〇〇〇万株。ほかに法人所有の一二〇万株。(カフェーは苗を数本ずつ束にして植える様になっており、呼称は「本」から「株」に変っていた)
 なお、この頃から、主作物を綿に変える農家が多くなった。ほかに米、玉蜀黍なども生産していた。もっとも、これは土地の広大な奥地=内陸部=の場合で、サンパウロ市の近郊や周辺地帯では、主作物はバタタや蔬菜であった。
 ともあれ、ここまでやったか……と、後世の我々をして、感慨を催させる成果であった。
 この二十五周年に、南樹にも良いことがあった。時の内山岩太郎サンパウロ総領事(後の神奈川県知事)から「笠戸丸移民の挺進役をつとめて以来の労に報いる」ということで、日本へ一時帰国用の乗船券が贈られたのである。
 バウルーで聖州新報を発行、時々サンパウロヘ出ていた香山六郎の推薦によるものであった。

鈴木南樹の恋人おたつさん

 ところが、南樹は総領事に礼も言わず船に乗ってしまった。素直になれなかったのであろうが、そのお情けをあえて受けてしまったのは、心の中で、初恋の人おたつさんに再会したいという懐いが滾(たぎ)っていたためである。
 日本ではそれが叶い、知人の仲立ちで山形県の天童の旅館で再会した。無論、プラトニックなラブ・シーンに終始した。南樹は歳五十を越しており、相手もそれに近い年頃、しかも立派な家庭の奥さんであった。南樹もサンパウロに家族ができていた。会って静かに話すだけで十分だった。
 そういう男と女の関係が存在した時代であった。
 天童駅前で、おたつさんから「長生きして、今一度帰っておいでなさい」と、見送られて別れた。南樹は、その日のことを「奇跡の日」と記している。
 南樹の滞日中、二十五周年を記念して、日本政府から邦人へ叙勲が行われることになった。(一章でふれた戦前ただ一度の叙勲がこれである)
 叙勲は、推薦者たちがサンパウロ日本総領事館に申請、館の審査、日本側での所定の手続きを経て……という方法で行われたようである。
 推薦されたのは、水野龍と上塚周平であった。二、三章で記した様に、水野は遅ればせながら人気が出ており、上塚は以前から人気は抜群であった。
 ところで、この叙勲、水野はアッサリ受けてしまった。「くれるものは貰っておけばよかろう」という調子だった。笠戸丸移民や通訳たち、そのほか水野のために傷だらけになった人々、あるいはその無念さを知る人々が、未だ多数生きていることを配慮したかどうか……。
 その粗放さは変わっていなかったのである。
 上塚の場合、裏面については、推薦者たちは知らないか目を瞑ったのであろう。が、当人は自覚しており、また、これ以前に何かのことで総領事に、
「周平は野人、人爵に憧れるような欲望は更になし」
 と見栄を切ったことがあった。
 今回も「自分は何一つ、手柄は上げていない」と、推薦中止を申し入れていた。叙勲が決まった後も「俺は貰わぬ。伝達式にも出ない」と拒否していた。
 が、最後には、
「微々たる草莽の臣の小事が、畏くも天朝に聞こえたる、身に余る光栄、ただ感泣のほかはない」
 と、拝領してしまった。
 この人の演技臭さも変わっていなかったようだ。

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