ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(68)

 日本病院

 二十五周年の記念行事の中で最大のものは「日本病院」の建設決定と定礎式であった。当時のブラジルでは「一流の水準と規模」の総合病院が設計されていた。
 ここで邦人社会の医療問題に少し触れておく。
 これより十二年前、時のサンパウロ総領事の藤田敏郎が、邦人の入植地の視察をした。その折、藤田は保健衛生状態の余りの悪さに衝撃を受けた。
 それから暫くして行なわれた実態調査によるとマラリア、結核、フェリーダ・プラーヴァ=森林黴毒=、トラホーム、腸チフスが蔓延していた。十二指腸虫、精神病、ピンガ中毒も多かった。
 入植地の中には、調査対象者の半数以上が罹病している所が少なくなかった。一〇〇㌫という所まであった。
 実は邦人の入植地は、病気に対して無防備そのものだった。藤田が視察した頃、医師が常駐していたのは、イグアッペくらいで、それ以外は、いわゆる無医村だった。
 ブラ拓の移住地には医師は常駐したが、その建設は、この実態調査より後のことになる。
 無医村だったのは、無論、医師を雇うような経済的余裕が無かったからである。外部から往診を求めることもなかった。診たてがいい加減な上、往診料が高過ぎたからである。それと、言葉が不自由なため、病状の微妙な部分を、医師に伝えられないという不便さもあった。
 そういうことで、大人も子供もかたっぱしから罹病した。
 藤田は「救済の急務なること」を本省に伝えた。 そして一九二三年から毎年、日本政府から補助金が出ることになった。 受け皿として設立されたのが、ブラジル日本人同仁会である。
 その設立、経営には海興が力を注ぎ、代々の支店長が理事長をつとめた。医療面で実務の中心となったのは、嘱託医として日本から赴任してきた高岡専太郎である。この人は日系社会の医療史上の先人として名高い。
 同仁会と高岡によって、初めて組織的な医療活動が始まる。その同仁会が、発足時から計画していたのが、病院の建設であった。
 一九二六年、赤松祐之総領事の時代に、七万円を日本政府から補助して貰い、病院建設用に一万四千平方㍍の土地を購入した。場所はサンパウロ市内ビラ・マリアナ区サンタ・クルース通りであった。
 そして二十五周年を機に、愈々、建設することが決まった。
 これには、内山岩太郎総領事が力を入れ、日系社会を挙げての建設準備委員会が組織された。
一九三三年の六月十八日、定礎式が行われた。これが日本病院(ポルトガル語名オスピタル・サンタ・クルース)である。
 その建設は、日本側も協力体制を敷き、翌年には皇室の御下賜金が決定、さらに数年かけて政府、民間から多額の寄付が集められた。計六〇万円である。
 これに地元での募金二〇万円を加えて計八〇万円が準備された。
 以後、日本からの派遣医師の資格その他の諸問題が発生、開院は遅れる。
結局、開院は一九三九年になるが、その時の感激は大変なもので、
「今は昔、ブラジルの独立を宣言するイピランガの丘、さては限りなく伸び行くサンパウロ市を一望の下に収めるこの我らが病院五層楼に立つ……」
 と、資料類に書き残されている。
 祖国の朝野の支援を受け、日系社会が総力を挙げて、一つの事業を成し遂げたのは、この時が初めてであった。
 日本病院とほぼ同時期、医療面でもう一つ明るいニュースがあった。結核療養所も持つことができたのである。サンパウロ州の東端、大西洋岸近く、山頂の避暑地カンポス・ジョルドンに設けられた。
 この療養所は、この国の医学界から、
 「日本人移民には結核患者が多い。ブラジルには不向きではあるまいか」
と懸念する声が上がったことで、建設が計画された。
 実際、病院への入院を要する邦人の三、四割が結核患者だった。
 そこで、同仁会の細江道庵医師が、中心になって郊外に家を一軒借りて、患者を収容し始めた。ところが、地元から反発が起こった。
 困っていると「カンポス・ジョルドンに林田久七という人が居て、家を借りて、金の無い結核患者を安い料金で療養させている」と教えてくれる人がいた。

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