小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=97

 運平が病臥していた間にも、墓標は増え続けていた。
 藤本テル(十六才)。前甲ミツエ(八才)。沖田セツエ(五才)。浜崎直記(二十才)……。
 直記はいま墓地に佇んでいる俊三の義弟だった。モジの弟である。俊三は妻と彼女の弟の三人でブラジルに来たのだった。俊三だけが辛うじて生き残った。
 先発隊員の一人で、平野川の上に小屋を建てて陽気な文野勝馬の父の馬太郎も死んだ。勝馬も独りぼっちになった。
 上本政一少年も、先月に母のスエを、今月になって父己之吉と妹シズエを失ってやはり独りぽっちになった。
 一家の中で十七才の生命力だけがマラリヤとの闘いにどうやら堪えられたのだった。
 運平は何軒かの小屋を訪なった。病状を聞き、はげますことだけが彼にできる唯一のことだった。
 行手にジャトバの大木がそびえていてその下に淋しそうに小屋があった。かっては荒木謙蔵とクノそして産れたばかりの静加の三人の家庭があった処だった。
 クノも静加も死んでしまった。狂った謙三が病いにおとろえた身を一人で横たえている小屋だった。
 トボトボと運平は小径を辿った。通る人が絶えて、経は再び草に埋もれようとしていた。扉の空袋の一方が外れて黒ずんで垂れている。黙って運平は中に入る。熱で頭がおかしい謙蔵に声をかけても仕方がないからだった。
 すぐ、彼は眉をひそめた。小屋の中が臭かった。病人の不潔な臭いではなく、肉が腐乱した臭気だった。
 謙蔵は死んでいた。体に移しい蛆が湧いてうごめいていた。臭気に堪えて運平は立っていた。
「なむあみだぶつ」
 称名が思わず口をついた。彼は額にべったりと汗を浮べながら仏の御名を唱え続けた。
 病気の謙三に食事を運んでいたのは同郷の米崎加賀須だった。しかし、米崎も発病したので、その世話を糸永俊三に頼んだのだ。だが、妻と義弟を喪って腑抜けのようになった俊三が数日、謙三の処へ行くのを忘れたとしても責めることはできないのだった。俊三自身もまだ熱がある。
 謙蔵のなきがらは布団にくるんで運び、茶 毘に付した妻と娘のそばに新しい墓標が立った。それは只のヤシの木にすぎないが、十メートルも離れて眺めると、幼な児を中心にした夫婦の姿がありありと見えるように思われた。

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