ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(70)

 リオで三浦は、乗船していた艦の誰かの紹介であったろう、海軍兵学校で柔道を教えた。ところが、カポエイラの使い手と試合をすることになった。
 カポエイラがどういう格闘技か、よく知らず試合に臨んだらしい。試合開始と同時に相手が上体を前に倒し、両手を下げた。それを柔道に於ける「礼」と勘違い、自分も丁寧に倣った。その瞬間、相手の足が急所を襲い、気を失った。
 これで、柔道師範は辞めた。
 以後、数年、リオで暮らした。その間、前章で触れたマカエの山県のファゼンダの食客になったこともある。
 東北伯地方やサンパウロ州内を放浪していた時期もある。これが数年続いた。やはり前章で登場した星名謙一郎が、そんな三浦をサントスで見かけた。
 その時のことを、後に聖州新報に書いている。それによると。──
 時期は一九一七年の五月半ばのことで、三浦は落魄のドン底に在った。着るに衣類なく、被るに帽子なく、足指の出る破れた靴を履き、食に事欠き、乞食の様になって震えていた。
 星名は、その三浦をサンパウロへ連れ帰り、必要品を買い与え、何カ月か飯を食わしてやった。
三浦は、すでに三十代の後半に入っていた。
 この三浦が日伯新聞を手に入れたのが一九一九年である。
 日伯は当時、資金繰りに窮して行き詰まっていた。それをコンデ街でブラブラしていた三浦が耳にし、手に入れようとした。といっても金はなかった。アチコチ金主を探している内に、前出の海興の坂本チンダイが、ミナス州の南端ウベラーバに住む石橋恒四郎を紹介してくれた。
 石橋は近くのコンキスタに急増していた邦人の米の生産者に呼びかけて、任意の産業組合を設立していた。
 三浦に協力を求められた時、石橋の方にも思惑があって興味を持ち、心当たりに声をかけて募金、五コント集めて提供した。(産組で出した、とする資料もある)
 思惑というのは、こうである。
当時、石橋はブラジル時報に組合のことを何かと批判され、面白からぬ思いをしていた。ブラジル時報は(前章で触れたが)一九一七年に創刊された邦字紙である。海興が発行した。普通「時報」と通称された。本稿でも以下、それに倣う。
 その海興の幹部は、日本から呼び寄せた移民たちが勝手に配耕先を飛び出しコンキスタに流れるので、腹を立てていた。それが時報の紙面に影響していた。
 そこで石橋は、日伯を味方につけて反撃しようとしたのである。
 まア、そういうことで、三浦は同紙を手に入れた。
 もっとも、新聞社といっても、狭苦しい半地下室が仕事場で、天井も壁も穢く汚れており、そこで編集から印刷、事務までやっていた。
 発行部数は数百部、従業員も数人に過ぎなかった。
 それを三浦は引き継いだのだが、以後、一直線にこの道を突き進む。余程、性に合っていたのだろう。
 部数をドンドン増やし、一九三〇年代後半の最盛期には二万部前後を発行、邦字新聞中、最大となった。関連事業にも手を広げ、従業員は三〇〇人を数えたという。実際、その通りであったかどうかは判らないが、ともかく、三浦と日伯はその名を売りに売った。
部数が増えたのは、一九二〇年代中頃から、日本からの移民が急増したためもあるが、記事が読者を面白がらせたことが大きかった。
 その鋭鋒は、書かれた側を怒らせたが、概ね的を射ていたので、反撃し難かった。
その一例を上げると、一九二六年一月八日付けの紙面に掲載された「田付大使のヨタ」という一文がある。
その中で、大使が他紙に寄せた年頭所感を取り上げ、
「どうひいき目に見ても中学生の作文」「チト恥を知ったらよかろう」
と貶し、
「ヨタを飛ばす大使の糞度胸には敬
服した」
と皮肉っている。
 因みに、その年頭所感の内容については、
「田付は日露戦争を回顧して、移民たちに最後の五分間主義でやっつけろ、急げ、急げ、力の限り猪突せよと煽動をしており、移民植民を命のやりとりの戦争沙汰と心得ている」(つづく)

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