ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(71)

 「移民植民というものは、家康流の漸進主義でなければならない。悠々迫らず生を楽しみつつ、功を長期的視野で期すべきである。ただでさえ急ぎ過ぎる弊があるのに、こんな平仄の合わぬヨタはない」
 と批判している。
 三浦の説は、性急で無理な植民地づくりをして多数の犠牲者を出した事例が幾つもあったことを思えば、的を射ていた。前章で記した平野植民地の建設など、田付と同じ日本外務省の役人である松村貞雄(サンパウロ総領事)が煽ったのが強く影響していた。
 また同じ年頭所感の中で、田付は「移民はサンパウロ州以外にも、その発展地を求めよ、それは急務である」と記している。
 田付はそれ以前から、アマゾンのパラー州での、日本の資本と移民による開発計画を推し進めていた。これは既述した様に、国会への排日法案提出がキッカケとなっており、それなりの経緯があった。
 が、三浦は、
 「国威発揚的な幻想に囚われた無謀な計画」
 と、決めつけた。
 このパラー州での計画は、鐘紡の手によって具体化されたが、結局、アマゾンの自然の厳しさの前に、事業的には軌道に乗らず、投げ出すことになる。入植者からは、風土病の犠牲者や落伍・難民化した人々が多数出る。
 無謀という三浦の説は当たったのである。
 また、当時の大使や総領事は、尊大に振舞う手合いが少なくなく、庶民層は不快がっていた。
 三浦は、その大使や総領事を筆の先で弄んだ。
 一九二六年、サンパウロ総領事として赤松祐之が着任した時も、三浦はコラムでこう書いている。
 「赤松をサンパウロに派遣したのは外務省としては非常な奮発だという人が沢山おる…(略)…してみると余程エライ気の利いた敏腕家でなければならぬ勘定だが、吾人の見る処では、横眼縦鼻、普通の官吏と少しも変りない。そりゃ、従来の総領事又は代理より無論よい…(略)…従来のサンパウロ総領事といえば人並み以下に悪かったし、なっていなかった。殆ど外務省でも選り屑ばかりを寄こしたものだ。それと比べて良いのでは余り自慢にならない…(略)…欲を云えば限りがないので…(略)…この辺で我慢するサということに…(略)…」
 この種の記事を読んだ庶民は溜飲が下がる思いだったという。
 三浦は同業者に対しても、遠慮なかった。
 前記の田付の年頭所感は、時報に載ったものである。普通なら、新聞社間で他紙の記事にケチをつける様なことは、しないものだ。しかし三浦は平然とやってのけた。
 この時期、時報の経営は海興から黒石清作という新潟県人に移っていた。
 黒石は若い頃、米国に渡り、サンフランシスコで邦字新聞の仕事をしていた。それがブラジルに移り、時報に入って、主幹となった。
 その後、移民会社が新聞を持つのは面白くないという批判があって、黒石に譲られた。が、海興の御用新聞であることに変わりはなかった。
 黒石は三浦とは正反対の、柔軟性に欠ける堅苦しい人間だった。日本の出先官憲には忠実で、総領事館に関する記事など、原稿を持参して総領事に見せ、了解をとっていたという。
 一方、庶民層に対しては指導者ヅラして記事を書いていた。社説など修身講話めいていた。自然、人気はなかった。
 それを、三浦は皮肉り続けた。黒石は激怒し続けた。
 三浦の鋭鋒は、他の邦人にも向けられた。
 前章で少し触れたが、八五低資の件では、上塚周平たちを痛烈に批判している。その内容を補足すると、次の様な部分もあった。
 「融資申請の運動は、ノロエステ線と奥ソロカバナ線のカフェー生産者のために行われている。その生産者はカフェー相場の下落で、土地を手放さねばならないほどの危機に在る。
 しかし、それは景気の良い時に、儲かったため有頂天になり、実力以上に土地を買い増し、事業を拡張したからである。責任は当人たちにある。
 運動の代表者は、ノロエステ線は上塚周平、奥ソロカバナ線は星名謙一郎ということになっているが、実務はノロエステ線ビリグイの山根寛がやっている。
 山根は土地の販売業者であり、ノロエステ線のカフェー生産者たちに土地を売った当人である。上塚第二植民地に関しても、深く関わっている。(つづく)

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