カフェー生産者たちが、土地代を払えなくなれば、山根自身が困る。そこで日本政府に泣きつかせることを思いついた。運動は山根自身のためである。
上塚も星名も、植民地建設のため、土地を売った側である。
市況の下落で困窮しているのはノロエステ線、奥ソロカバナ線のカフェー生産者だけではない。日本政府に救済を申請するなら、総ての邦人カフェー生産者の名で行うべきだ。
両線のカフェー生産者は、無謀な投資の反省をし、一旦、土地を手放して、やり直すべきである」
これには、無論、両線の関係者は激昂した。
星名謙一郎などは、昔、三浦が落魄していた時に助けてやっただけに「忘恩の徒」と罵った。
三浦は、サンパウロに於ける日本人の拠り所であったコンデ街すら槍玉に上げた。ここで売春が行われている、と書いたのである。
これが住民を憤激させ、世話役の木村清八らが強硬な反三浦派になった。
こういう具合で敵も多くつくった。
その敵の中から「奴をなんとかしろ、いっそブラジルから叩きだしてしまえ」という声があがり、実際に追放工作を始める連中が現れた。その中心人物と目されていたのが時報の黒石であった。
反三浦派は、まずリオの田付大使を動かそうとした。三浦が──前記の時報の年頭所感以外にも──田付を貶す記事を書いていたからである。それを利用「ブラジル政府に三浦追放を要求すべし」と、田付を唆した。
日伯は法的にはブラジルの新聞である。それが外国の大使を貶す記事を書いたとあれば、政府としても放っておくことはできないだろう、と見込んだのだ。
が、田付は、そこまではしなかった。そのまま帰国した。
以後も、三浦の筆鋒は衰えず、反三浦派の憎しみは強まる一方だった。
一九二九年、その仲間に岸本次男という男が加わった。
岸本はポルトガル語が達者で、公証翻訳人の資格を持ち、州警察の本部に出入りし、その手先の様なことをしていた。例えば日系社会に関する情報蒐集である。
これが実に奇妙奇天烈な男だった。
南樹の書いたモノによると、
「一度何か気まずいことがあると、それを根に持ってトコトンまで追撃しなければやまない執念深い所があり、そして、そうした自分の行動を自ら第三者として眺めて、しみじみと楽しむという変態的趣味を持っていた。
だから岸本は、よく、自分に関係深い人でも、警察に引っ張らせるようなこともやってのけた。しかし、それは必ずしも、その人に対して悪意を持っているわけではなく、ただ単にそうした事が面白いので、存外呑気で、のほほんとしている。それは丁度、盆栽を楽しむ人が、万年青や松を愛すると同じような一種の趣味に過ぎなかった」
というから呆れる。
三浦は、この岸本に恨まれる様な言動をしたことはなかった。
ところが、岸本の嗜虐趣味が、三浦を巡るゴタゴタを観ている内に、我慢できなくなって、介入したのである。
四月、岸本を加えて反三浦派は「日伯新聞弾劾演説会」なるものを開き「社主三浦鑿の犯罪を摘発して大官並びに官憲の裁断を仰ぐ」と決議、文書にしてばら撒いた。
さらに日本人同志会なるものを結成、三浦攻撃運動を開始した。
が、三浦は動じる様子はなかった。
ほぼ同時期、日伯を一夜暴漢が襲い、活字ケ━スをひっくり返し、印刷用の紙や書類を引き裂き、インクをぶちまけ、床に小便をし……と滅茶苦茶に荒らしまくった。
新聞は十日ほど発行不能となった。
暴漢は日伯の、解雇された元雇員の西村某であった。
これが事件直後、反三浦派に接触、襲撃を報告したとか金を貰って逐電したとか……の噂が流れた。
三浦は、新聞の発行が再開できるようになると、紙面に、
「狂犬に噛まれた様なモノであるが、世の中には、その狂犬を利用して、己に邪魔な者を排除しょうとする輩がいる。時報の黒石などは、出社して事件のことを聞くと手を叩いて喜んだそうだ」
という記事を載せ、さらに「これを機会に機械を買って印刷部門を拡充する、焼け太りをしてみせる」と豪語した。(つづく)