ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(73)

 西村は逐電後、上塚批判記事で反三浦派が多く生まれたノロエステ線方面に現れ、英雄気取りで事件のことを吹聴して歩き、サンパウロに戻ると、日本人同志会に潜り込んだ。
 やはり、その頃、ポルトガル語の小さな新聞二紙に三浦を誹謗する記事が載った。内容からして、記事の出所が邦人であることは明らかだった。
 三浦側が調べると、岸本を含む数人がそのポ語新聞を訪れて、記事掲載を頼んで歩いたことが判った。
 六月、反三浦派は、リオの有吉大使に三浦弾劾文を提出、処分を訴えた。時報が、これを紙面に掲載した。
 が、有吉は取り上げなかった。
 有吉は、こういう日系社会の内訌は、ブラジル人の反日気分を醸成する、と判断したという。
 ところが、反三浦派は諦めない。岸本を通じて、サンパウロの州警察に三浦を「ブラジルにとって好ましからざる人物」と告発した。
 三浦が書いた古い記事の反ブラジル的な個所のみを拾って、ポルトガル語に翻訳したものを添えていた。
 州警察では、当人の言い分も聞くべく出頭を求めた。出頭した三浦は、
 「この翻訳は正確ではなく、人を罪に陥れるため、悪意をもって訳している。絶対に信用すべきでない。他の適切な翻訳人に正確な翻訳をさせるべきだ」
 と反論をした。
 事は、それでおしまいになった。
 しかし岸本は諦めなかった。今度は仲間と共に、サンパウロの日本総領事に接近した。
 この時の総領事は中島清一郎といった。これに三浦の弊害ぶりを吹き込んだ。中島は動かされた。
 ただ彼は利口な男で、三浦追放を口にする様なことはしなかった。その代わり、他人にそれとなく暗示をかけ、三浦を日本へ帰国させる様に運ぼうとした。この場合の他人とは、総領事館へ出入りする邦人たちである。
 彼らとの談笑の中で、中島は、
 「君、なんとか三浦君を救済する方法はないだろうか」
 と巧妙な話の持ちかけ方をした。その話を聞いた者が三浦に「一時、ブラジルを立ち退いてくれ」と説得することを狙ったのだ。中島の部下たちも、意を汲んで唆し役を演じた。
 果たせるかな、何人もの邦人がその説得役を演じた。旅費を出そうとまで言い出す者もいた。さらに「罪を悔悟して江湖に謝す」という書き出しで始まる謝罪状を用意して、三浦に署名させようとする者まで現れた。
 三浦は総て一蹴した。実は中島の発言内容が、次々と耳に入って来ており、自分を説得に来る連中が操られている──と知っていたのである。
 そのうち中島に変化が現れた。三浦を目の仇にする様になった。三浦が彼の夫人に醜聞があると書いたためという。
 一九二九年末、ニューヨーク発の大恐慌でカフェーの市況が大暴落、邦人生産者が困窮した。翌年、上塚周平たちが再度、日本政府に対し、低利融資の請願運動を始め、中島に訴えた。中島は色よい返事をした。
 これを三浦が叩いた。理由は前回と同じである。
 結局、この件は、リオの大使館が「低利融資が出る見込みはない」と日伯に伝えた。記事になった。中島の面目は丸つぶれになった。
 一九三〇年の暮れ近く、三浦は「外務大臣 幣原喜重郎殿」と題する記事を一面に五段組で掲げ、中島を槍玉に挙げた。
 「ろくでもないことばかりしている」、「二枚舌を使う」と。
 加えて、この年に起きたゼッツリオ・ヴァルガス革命に、中島がどう対処したか、それがいかに笑止千万なものであるかを、書き連ねた。
 しかも「この新聞を五、六百部余計に刷って(日本の)枢密院や貴族院のやかましい爺さんたちにも読んでもらう」とまで明記していた。
 「ろくでもないこと」の事例としては、中島が上塚たちの低利融資の申請に協力したり、移民数の制限を提言したりしたことを上げている。
 中島は激怒した、この時、本当に三浦を国外へ追放しようと決心した──といわれる。部下や黒石ら反三浦派を動かして工作を進めようとした。しかし策がなかった。
 この時、岸本次男が州警察に再び三浦を告発することを勧めた。

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