ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(74)

 実は、革命によって、サンパウロ州政府の役人が上から下まで殆ど入れ代わり、新政府が前政府のボロ、失政を暴き始めていた。州警察に於いても、そうであった。
 反三浦派は改めて告発状を州警察に提出した。その中には、
 「日伯新聞が書いた中島総領事夫人に関する醜聞記事は事実無根で、同夫人の名誉を甚だしく傷つけるものである」
 という一文があった。
 一九三一年二月、中島は、斎藤書記生を連れて州警察の幹部を訪れ、
 「三浦の追放は日本政府の望むところであり、在留日本人の総意である。告発状が出ているが、こちらに回ってきたらよろしく採決して欲しい」
 と申し入れた。さらに二人は二日後、再び訪問、回答を求めた。
 対して三浦も、州警察の求めに応じて、告発の内容を否定する反証を提出した。が、岸本が警察内部の担当者を籠絡、握りつぶしてしまった。
 三月六日、中島は告発状がリオの司法省へ送られたことを知った。そこで領事の川西を大使館に派遣、報告し了解を求めた。
 ところが、時の縫田代理大使は烈火のごとく怒り「本省へ一切を報告する」と叱った。川西はホウホウの体で引き下がった。
 以上の経緯は、三浦の耳に入っていた。
 三月十二日、突如、日伯は一面のド真中に三段囲みで、次の様な社告を掲載した。
 「社告
 元サンパウロ総領事
 平民 中島清一郎
 右は昨年十二月末以降、ブラジル時報社黒石清作と共謀し、極秘の間に再び三浦本社社長の国外追放を企て、人を以って其筋に告訴せしめ、自らは裏面において、日本政府並びに在留日本人総ての希望なりと詐り、前後数回に渡り、之が即決処分を当国官憲に迫りたるも未だ聞届けられず、帝国官吏として有るまじき行為なり。依て茲に之を晒すもの也。
 尚本件に関しては、領事川西豊蔵、書生斎藤武雄、臨時雇岸本次男、同木村清八の外何人もあずからず。
 一九三一年三月十二日 日伯社 」
 文中、中島の肩書が元サンパウロ総領事となっているのは、彼がすでに帰朝命令を受けていたため、そうしたのかもしれない。が、平民という身分とともに、わざと記す必要もないことで、挑発的である。
 この社告は、読者の度肝を抜き、邦人社会は大騒ぎになった。
 三浦が、右の社告を出したのは、追放工作を潰す狙いもあったろう。
 しかし、その翌三月十三日、追放令が司法大臣によって署名され、十四日、ポルトガル語の新聞で報道されてしまった。
 その直前、大臣の署名が避けられないという情報が入り、三浦はリオに向かった。日本大使館を訪れ、縫田代理大使に庇護を求めた。大使館は治外法権である。三浦は、縫田が中島の追放工作を苦々しく思っていることを知っていたのだ。
 縫田は「匿う」とは言わなかった。が、三浦が勝手に居座るなら仕方ない、と言う。そこで勝手に居座った。が、十日ほどして何かの都合で外へ出た時、張り込んでいた刑事たちに捕まった。その刑事たちの中に岸本が居た。
 以下、この項の初めの方で記したことと一部重複する。──
 三浦は、その日の内にサンパウロへ送られ、二十六日、サントスで欧州向けの船に強引に乗せられてしまった。
 それを知って驚いた日伯新聞では、三浦の友人たちの発起で、追放令取消しのための署名集めを始めた。すると、僅か二日の間に、六五〇人の署名が集まり、さらに増え続けた。
 それを添えて、司法大臣、サンパウロ州執政官(革命政権下の任命制の州首長)その他に対し、再審理請願書を弁護士を通じて提出した。
 大使館も司法大臣に穏便な処置を要請した。大使館の動きと総領事館の動きが相反していたことになる。
 事件は改めてサンパウロ州政府、司法省、大審院で再審ということになった。
 署名は最終的には一万人に及んだとする記録もある。当時の日系社会の人口は十数万、殆どがサンパウロ州やパラナ州に広く散在していた。署名を集めるのは難事であった筈で、短期間に一万というと大変な数ということになる。宣伝のためサバを読んだ数字だったかもしれないが……。(つづく)

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