ともあれ、運動の効果があったのであろう、六月一日、ゼッツリオ・ヴァルガス大統領は、追放令を取り消した。司法省も三浦を帰国させる措置をとった。
なお、この追放取り消し運動では三浦が昔、海軍兵学校で柔道を教えた生徒たちが、佐官クラスになっており、協力したという。
三浦は大西洋上、アフリカの近くのカナリア島で下船、別便で引き返した。
かくして青天白日の身になり、大勢の社員、友人、知人、読者の大歓声を受けつつサンパウロ入りした──という次第である。
こうなると、もう英雄であった。「無冠の帝王」と喝采された。
かくして騒動は幕を閉じた。
以後、三浦と日伯は巷の人気を一段と高め、日の出の勢いとなる。
ただし三浦の国外追放工作は、未だ終わってはいなかった。反三浦派は勢いを失って行ったが、岸本がチャンスを待ち続けたのである。無論、その嗜虐趣味からであった。
それについては、別章で取り上げる。
戦場になった東山農場
三浦鑿の国外追放騒ぎがあった翌一九三二年の七月、内戦が勃発した。
サンパウロ州がゼッツリオ・ヴァルガス革命政権に反旗を翻したのである。
この内戦、同州がヴァルガスに憲法制定を要求して決起した──ということになっている。が、要するに革命政権に既得権益を次々と奪われ、募る不満を爆発させたのである。
ただし内戦といっても、大型の戦闘はなく、三カ月後、州側の敗北で終わった。
ヴァルガスの軍は正規の軍隊であったのに対し、州軍は急いで募集した雑兵からなり、装備も劣っていたためである。
ところで、その内戦中、カンピーナスの東山農場が戦場になったという事実がある。
農場に残されている資料によると、ザッと次の様な経緯であった。
八月下旬、ヴァルガス軍が、サンパウロ州軍と決戦のため、ミナス州を経て南下、カンピーナスに迫った。その前方に東山農場があった。
一方、州軍もこれを阻止すべく南方から北上、農場へ接近した。
九月十五日、ヴァルガス軍の飛行機一機が農場上空に飛来、カフー園で働いていた労務者たちを機銃掃射し爆弾を一発投下。州軍兵士と間違えた模様。労務者たちは慌てふためき逃げ惑った。
州軍、農場入り口付近に、騎馬隊と通信隊を配置。
一部従業員とその家族が退避。山本喜誉司場長ら主な職員は、農場本部に留まる。
十六日~二十一日、両軍の飛行機が上空に飛来。地上では互いに偵察。
二十二日、両軍が戦闘。砲声、機銃の音、次第に激化。
二十三、四日。州軍が農場に進入、本部付近に一個中隊を配置。山本は本部内への立ち入りは拒否、指揮所としてベランダの使用を認める。
戦闘継続。砲弾がカフェー園に多数落下、一弾が高地にある見晴し台の梁を傷つける。
二十七日、州軍やや後退。
代わってヴァルガス軍が進出。見晴し台の傍に砲兵陣地を置き、州軍に向けて七五ミリ砲を撃ち込む。
山本は部下に指示、本部の側に高い旗竿を立て、その先に日伯両国旗を掲げる。旗は風を受けて翩翻と翻る。
ヴァルガス軍がズドンズドンと撃つ砲弾が旗の上を飛ぶ。シュジュシューと青空を突き破って、州軍の塹壕近くに数十発落下、土煙を上げて爆発。
夕方から夜にかけて、州軍からの砲撃が続く。激しく家鳴り、地響きがし、職員は全員、本部より退去。
二十八日、州軍の砲弾が本部前のカフェー乾燥場に落下、不発。他の砲弾が倉庫、厨舎、労務者住宅に命中。牛六頭が死亡。
建物の壁に残った小銃弾は一〇〇発以上。
二十九日、砲撃戦、続く。
三十日、州軍、全面退却。その際、付近の牧場の牧草に放火。
銃声はなお聞こえていたが、次第に遠ざかる──。
戦闘終了後、ヴァルガス軍から若い指揮官がやってきて「兵士に何か不規律なことがなかったですか?」とか「農場の職員が、交戦中に踏みとどまったのは、勇気ある行動です」とか、丁寧に挨拶して行った。
一方、州軍の方は、
「戦闘中、兵士が農場の労務者の家に入り込んで、ピンガを呑んでいた」