これに応じた一人、サンパウロ州選出のオリヴェイラ・ボッテリオ下院議員が、地方に旅行をし、日本移民の現地調査を行い、しかる後、議会でレイス法案に反駁する演説を行った。
この演説は極めて効果的だった。
ほかにも、リラ・カストロ下院議員(パラー州選出)、ネストール・アスコリ弁護士らが、有効な日本移民擁護論を唱えた。
一九二六年、ワシントン・ルイスが大統領に就任すると、レイス法案は事実上、握り潰された。新大統領は国際協調派であったし、蔵相には右のオリヴェイラ・ボッテリオ、農相には同じくリラ・カストロが就任していた。
ところで、レイス法案提出の中心人物は、実はレイス自身ではなかった。前出のミゲール・コウトであった。
ブラジル医学界では大物であり、日本移民警戒論では、故アルベルト・トーレスの同志であった。
この医師はレイス法案が葬り去られた後も、諦めなかった。誇り高く頑固で執拗な性格の持ち主だった。
その主張も、アルベルト・トーレスの学説より、さらに厳しい内容になっていた。
彼は、その主張の正当性を立証するため、一つの学説を用意していた。『優生学』なるもので、米国で唱えられた排日論に自身の日本研究を絡ませて、内容を組み立てていた。
その研究は教育勅語にまで及んでおり、
「国家が教育に力を注いだ結果、日本人は優秀である」
と、評価しながらも、「その優秀さと非同化性の故に、無制限入国を許せば、将来、ブラジルは日本に征服されるか、日本との共同統治下に置かれるであろう」
と警告していた。
コウトは、この優生学説を世に主張し続けた。が、余り反応はなかった。数年が過ぎた。
一九三〇年、革命が勃発した。これは、大統領ワシントン・ルイスの後継者指名問題がキッカケになって起きた。
政権の座をミナス州と交代で独占するサンパウロ州のカフェー貴族に対し、長年不満を鬱積させてきた他州勢力が蜂起したのである。(カフェー貴族=カフェー生産で大資産家となり、貴族の地位を買った人々)
蜂起は成功、臨時政府が樹立され、大統領にはリオ・グランデ・ド・スール州の知事ゼッツリオ・ヴァルガスが推戴された。
ヴァルガスは、七年後には独裁体制を敷き、一九四五年まで政権を握ることになる。その後一旦下野するが、五年後に復帰、一九五四年に自殺する。
ブラジル政治史上に、巨大な足跡を残す人物である。
彼は革命政権発足時、先ず中央集権化とナショナリズムに重点を置いた新政策を発表した。
その一つとして、それまで国と州で管轄していた移民行政を国の労働省で統括することとし、翌一九三一年から、国内労働者保護のため、外国移民の入国制限に踏み切った。
が、これは都市労働者が対象とされた。農業が大部分の日本移民は、対象外に置かれ、その流入数は増え続けた。
これに「嚇怒した」といわれる男がいる。ミゲール・コウトである。
彼は一九三二年中頃から、機会ある度に、猛烈な演説を繰り返すようになった。その内容は、日本移民警戒論から排日論へと尖鋭化していた。
すると、それまでとは違った反応が現れた。例えばリオの有力紙ジョルナル・ド・コメルシオが、彼を支持、排日的な記事を掲載し始めた。
同紙は、かつて時の政権を覆したことがあり「侮り難い影響力を持つ」と評された新聞である。
が、以前は親日的であった。ために論調の急変は、不自然であった。日系社会を訝しがらせた。
同紙は満州に於ける異変を取り上げ、国際連盟で日本大使が行なった「日本が巨額の投資をなせる満州に、他から容喙するのは、日本の存在自体を侵害するものである」という発言を引用「支那が満州を失ったと同様、ブラジルはアマゾンを失うに至るであろう」と警鐘を鳴らしていた。
満州は、日本の近くに在って日本軍が駐屯している。アマゾンは地球の反対側に在って、少数の移民が森の中に散在しているだけである。
それを同列に論ずる乱暴さにも不自然さが臭った。
この不自然さが翌年の制憲議会に於ける前記の四議員たちの不自然さにつながって行く。満州を共通して道具に使っていることもヘンであった。
不自然さというものの背後には、大抵、工作が存在するものである。
後から振り返れば、このジョルナル・ド・コメルシオの不自然さこそ、危機の前触れであった。だが、日系社会も大使館も、そこまでは察知していなかった。