ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(82)

 ミゲール・コウトが執拗にも、その新憲法法案を審議する本会議へ、改めて移民に関する項目の新修正案を提出したのである。
 この時、彼は前記の他の三人と連携した。その修正案は、
 「アジア人の制限比率を一〇〇分の二とする」
 「外国移民の集中居住を禁止」
 の二点が骨子となっており、制限比率は既述の最初の一〇〇分の五より厳しくなっていた。
 さらに彼らは、他の議員の賛成署名を集め始めた。この辺から、情勢推移の不自然さが奇怪性を帯びるのである。
 署名がドンドン集まり出したのだ。たちまち六〇人を越した。
 それをサンパウロの日系社会が知ったのは、三月九日であった。
 有志が急遽、会合した。日系社会の指導的立場にあった人々や新修正案が成立すれば致命傷を受ける企業の代表者たちである。
 十一日、ブラ拓の事務所に集まり、善後策を練った。顔ぶれは日本の元駐アルゼンチン公使でバナナの栽培・輸出をしていた古谷重綱、ブラ拓の宮坂国人、東山の君塚慎、医師の高岡専太郎、それと海興、大阪商船の代表者たちである。
 日伯の三浦、時報の黒石の姿もあった。
 この内、ブラ拓は既に一部のポ語の新聞から狙い撃ちにされていた。
 「ブラ拓は、日本政府が被っている仮面である」
 と。これは、移住地の建設資金が日本政府から出ていることを指していた。
 その移住地は、海外雄飛の事業化に挑戦する有志たちが、長年「国家による建設の必要性」を唱え続け、実現したものである。
 それが逆に攻撃材料にされてしまったのだ。しかも何処から情報が入るのか、イヤに詳しい事まで知っていた。

 怒り爆発

 三月十三日、愈々、新憲法法案を審議する本会議が開かれ、コウト派の新修正案が提出された。
 賛成署名は一〇〇人を越していた。全議員数は二五四人であった。過半数に近い。
 古谷たち前記の有志は、直ちに日本政府の外務・拓務両相宛て、打電した。
 「(制憲議会ニ於イテ)亜細亜移民二分制限案提出セラレ多数議員ノ賛成ヲ得ツツアリ 形勢逆賭シ難シ 此際閣下ニ於イテハ 出先官憲ヲ督励シ 充分ナル対策ヲ講ゼラレルヤウ 懇願ス」
 電文中の「逆賭シ難シ」は「予想困難」の意である。
 「二分制限案」という言葉は、新修正案の中の「一〇〇分の二」の部分をとって、名付けた通称である。
 以後、これが一般化するが、これであると「集中居住の禁止」の方が隠れてしまうので、本稿では「排日法案」と表現している。
 右の打電の後、古谷、宮坂、君塚、三浦、黒石の五人が十五日、リオの日本大使館へ駆け付けた。無論、大使館と協力して巻返しを図るためであった。
 ところが、これに対する(この時点では、アマゾン旅行から戻っていた)林大使の反応が、一行を驚かせた。
 「如何に大使でも、他国の立法にまで干渉できるか。二十五年間、在留邦人が排日の種を蒔いてきたのだから、今更どうにもなるものか」
 と突き放したのである。十余年前の田付大使とは、えらい違いであった。
 林は、対ブラジル移住の促進が日本政府の国策であることも、無視していたことになる。
 この間、ミゲール・コウト派の新修正案の賛成署名が一二〇人に達した(!)という情報が入った。
 五人と大使の会談は、三日間に渡って続けられた。が、五人は「大使は手遅れと見ている上、能動的に対処しようとする意志が薄い」という印象を受けた。
 それに対する怒りを、黒石がサンパウロに戻って紙面で爆発させた。見
出しは、
 「林大使閣下に帰朝を促す」
 と、殺気立っていた。記事の本文では、感情を必死で抑制しようとしつつも、それが出来ぬといった筆調で、ボンクラ、無為無策、無能、大失策、腰抜け等といった言葉を、間接、直接に使って大使を弾劾、
 「明日といわず、今日にでも日本に帰れ」
 「有害無益、同舟同罪の館員をひとまとめにして帰朝、その罪を国民に謝罪せよ」
 と締め括った。
 黒石は三浦とは反対に大使館や総領事館には従順な男であった。それが、この調子だった。
 一方で黒石は、二度目の電報を、日本の新聞へ打った。これも押さえられた。三度目、今度は記事となった。
 三浦も、日本の別の新聞に打電、紙面に掲載された。

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