ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(83)

 日本側の空気が変わったのは、三月二十日頃からである。外務省がリオ大使館に訓電を発し、新修正案の成立回避を指示したのだ。
 二十四日には、日本の国会で議員の質問という形で取り上げられ、広田弘毅外相が、
 「(リオの制憲議会に上程されている新修正案は)日伯両国の伝統的友誼に照らし、まことに遺憾」
 と答弁、日本政府の意を明らかにした。
 これで大使館がコロリと変わった。ポ語新聞に働きかけ、新修正案に対する反論を掲載して貰った。
 大使館は他にも色々手を打ったようだ。次の様な動きが続いた。(後藤武夫や後述する長谷川武の奔走よるところも大きかったであろう)
 軍部の実力者ゴイス・モンテイロ陸相が、紙上で日本移民の農業面での実績を評価、この国に於けるその存在の必要性を認め、同化能力もあると見做し、
 「国内に全く孤立した外国人の集中居住地が出来ることは否定するが、かかるものは存在せず、警戒的法律は不要」
 と主張した。
 制憲議会のアントニオ・C・マキシミリアーノ議長も、
 「特定人種の移民を禁止、制限する字句を憲法へ挿入することは、穏当を欠く」
 と、提案者たちに忠告した。
 ゼッリオ・ヴァルガス大統領も、ミゲール・コウトを招いて説諭、さらに警察を使ってリオ、サンパウロ両市の新聞の排日記事の取締りをさせた。(ということは、背後の工作者の手が新聞界に広く回っていたことも意味する)
 邦人たちは、これで新修正案は葬られると思った。日伯新聞、ブラジル時報ともホッと一安心といった調子で、そういう観測を記事にしている。

 トリック

 ところがミゲール・コウトたちは、諦めなかった。
 彼らは、新修正案の最大の弱点が人種差別であることを知っていた。そこで多分アレコレ策を練っている内に…であろう、ある案が浮かび上がってきた。
 それは、アフリカ人やアジア人の受け入れ制限の部分を削って、代わりに、
 「各国移民の年間入国数を、最近五十年間にブラジルに定着せる当該国人の総数の一〇〇分の二に制限する」
 とするという方法である。こうすれば、読む者は、全ての国の移民を平等に扱っている、と思う。人種差別という非難を躱すことができる。
 が、実際に、この基準で国別の移民数の枠を計算してみると。
 イタリア、ポルトガル、スペインの南欧三カ国は、ブラジルへの移民の歴史が古く、その数(累計)も多いため「最近五十年間」の二分つまり二㌫でも、年間二万七、〇〇〇人、二万三、〇〇〇人、一万一、〇〇〇人となり、十分な枠を確保できる。
 が、日本は歴史が新しく数も少ないため、年間二、八〇〇人に制限されてしまう。前年の実績は二万四、〇〇〇人であったから、その一割余にしかならない。
 文字通り、トリックであった。(右の試算は、定着数は現実問題として算出困難であったため、入国数を基準に計算された)
 ミゲール・コウトたちは、今一つの「外国移民の集中居住禁止」の項は、こう改めた。
 「共和国領土内のいずれの地を問わず、移民の集中居住は之を禁じ、外国人の選択、地方分散、同化に関する事項は、別に法律を以て、これを定む」
 こちらも一応、筋の通った表現であった。しかし日本移民の場合、その集中居住地が何百カ所もあり、今さら解体できるわけもなかった。
 ミゲール・コウト派は、この「新々修正案」を、四月十四日、本会議に提出した。
 対して、これを阻むための折衷案が政府内部で用意されたが、なぜか途中で消えてしまった。
 その頃、親日的であった政府の姿勢が急変していた。その背後事情は後述する。
 かくして、五月二十四日、新々修正案成立。賛成一四六票、反対四一票。大差であった。ドンデン返しだった。
 これには、日系社会は「何人も暫し呆然」と言われたほどである。
 ミゲール・コウトが、この排日法にかけた気迫はすさまじく、その演説など「獅子吼」と形容され、一命を賭しているとすら言われた。
 事実、新々修正案成立から間もない六月六日、急死している。七十歳。
 敵ながら日系社会を感嘆させた。

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