米が助かったのは、幼虫にとって直立した稲は登りにくいからだった。それに低地は水もある。いつの間にか大正七年一九一八)の正月も過ぎていたのだった。幕も正月も念頭になかった。十一月の十三日にバッタが来て作物を食い、肥り、十二月に卵を産んだ。ヘトへトになって再び種をまき終ったら新年早々幼虫が這い出し、四十日はど暴れ廻ったのだった。
コーヒーの苗を定植する時期が少し過ぎていた。二月十日には乾期用豆も蒔かなければならない。食い物もないのに、牛馬のように、いやそれよりもっと酷く働いて働いて、働かなければならないのだった。
森を拓く、とは不思議なことだった。これほど自然に痛めつけられ、生死の境をさ迷うような貧しい日常なのに、人々の間に一種の明るさがあるのだった。
どんなに貧しくてもここは自分の土地だ。人に頭を押さえつけられ、命令され、搾取されているのでない、という意識が人の心を明るく意欲的にしているのだった。
日語学校の横に板囲いの道場がつくられ、日曜になると青年たちが、
「エイ!」
「ヤーツ!」
と剣道にはげんでいる。
自製の竹刀だけで防具も小手に布をまいただけだが、それでけっこう楽しいのだった。
道具が不要なせいもあって相撲も盛んである。
六月の半ばの日曜日に、運平が剣道の試合を観戦していると、
「ちょっと平野さん」と徳永が呼びに来た。
教室に入植者の重だった顔が並んでいる。何となく思いつめたような表情をしていた。運平が入って行ってもバツが悪そうに何も言わない。
「どうした?徳永君」
運平が訊ねると徳永は言い憎そうに口籠りながら話を切り出した。入植者たちはまだ地権証書を受けとっていない。土地の値は測量費と地権の書類付きということであった。そろそろ正式に地権を手に入れて安心したいのだが…‥…。
「おう。そうだな。皆の言うのがもっともだ。早速バウルへ行って登記の手続きを済ませよう」
と運平は答えた。
「ありがとうございます平野さん」
皆は口々に言って頭を下げた。
剣道の試合を見終って運平は家へ戻った。じっと腕組みをして考え込んだ。確かに、土地代に登記費も含めていたが、その金は一ミルも残っていない。運平は数年は働かなくて暮せるだけの金を持っていたが、入植時の諸費用とマラリヤで使い果した。バウルで買ったキニーネの薬代だけで一千六百二十アルケールの土地代より高かったのだ。(つづく)