対して林大使は、全く逆の印象を残した。三浦は、
「大使林久次郎君に一言す。戦いは負けだ。この際潔く、旗を巻いて日本へ帰ることだ。その罪はまさに死に値する。帰れ、帰れ、皆帰れ」
と、紙面で怒号した。
ところで、ミゲール・コウトは、実は日本人・日本嫌いではなかった、という説もある。医師として貧しい日本移民の患者を受け付ければ、診療費はとらず、かつ親切であった。また死の直前、排日法に関して「日本には気の毒なことをした」という言葉も残した。
それ以上の深部については資料を欠くが、ひとつには、世間がその優生学を長く無視したことが、我慢ならなかったのであろう。誇り高く頑固で執拗な性格の持ち主であったという点からの推定である。
今一つは、この排日法案の背後に存在した強力な工作者=某国政府=との関係であろう。そういう関係が出来ると、引っ込みがつかなくなる。
背後に米国!
ところで、この排日法は、議会で何故かくも多数の支持を得られたのか?
その答を三浦はこう書いている。
「いかに愚鈍な者といえど、今回の排日法の背後に、第三国が控えていることは、合点がいったであろう」
その第三国は米国だ、という。
黒石も、
「誰かの策謀がなければ、考えられぬこと」
と断じ、その策謀の主として米国の名をあげている。
二人とも、米国の傍らに、外交では常に一体の英国の存在があった、としている。
筆者は先に情勢推移の不自然さに繰り返し触れたが、その仕掛け人は米国であり、英国も歩調を合わせていたというわけだ。
三浦は、実は三月十四日の段階で、次の様に記している。
「ミゲール・コウトたちの背後には、米国が控えている。有り様は大人が子供を唆して火付けをしている、という形である。昨年、国際連盟脱退後は、日本はあらゆる方面に於いて英米から邪魔され、苛められている。先般、英外相サイモンが来て『ブラジルは日本移民をドンドン入れているが、後でどうするつもりだ』と、あからさまに言ってのけたのも、それだ」
さらに五月二十三日の紙面で、
「何れにしても、自分の猟場と心得ている所へ、平常目の敵とする日本人がドンドン入ってくるのは、米国の快しとするところではない。出来るだけ之を排斥…」
と補足している。
ブラジル時報も、六月、高岡生(既出の高岡専太郎とは別人)の署名入りで、この排日法成立の内幕を連載した。要旨、次の通り。
「米国は、一九二九年に始まった大恐慌からの復興に懸命であり、そのための一つとして、国内綿花の四割減産を行い、内外市場における価格回復を図っている。
ところが、ブラジルのサンパウロ州に、これと相反する現象が存在することを知った。同州綿花の生産増と品質改良が躍進的であり、米国産を脅かしており、しかも、その生産量の七割近くが、日本人の手によるという事実である。米国は、これに驚愕した。
近年、世界市場に於ける日本商品の振舞の傍若無人ぶりは、自他ともに認める処である。破竹の勢いで席捲し、最近は南米に於いても片端から他国製品を駆逐している。
米国としては、無関心でおられるわけがない。昨年十二月五日から、ウルグアイのモンテビデオで、汎米経済会議が開催された。その会議で米国は、自国のリーダー・シップによる排日経済ブロックの確立を期していた。
会議には、米国の首席代表としてコーデル・ハル国務長官が出席した。それに先立ち、ハル長官はリオに現れた」
当時、日米関係は、悪化していた。
それは様々な要因によって引き起こされたが、その一つは(第一次世界)大戦後の世界的な大不況下、日本の企業が苦し紛れに、輸出商品をダンピング、米の市場を荒らしたことにあった。
英国の市場に対しても同様であった。
対して米は英その他の国々と組み、日本商品の排斥工作を国際的に展開した。
その確執は一九三〇年代に入っても変わらなかった。それどころか、一段と険しさを増していた。