芸術フットボールを追い求めて=沢田啓明=第4回=プロへの登竜門コパ・サンパウロ=客席での狼藉、まさかの膝蹴り

第52回大会決勝戦、パルメイラス対サントス戦の様子、アリアンツ・パルケで(Genaron, via Wikimedia Commons)

 これまでブラジル各地、さらには南米各地で多くの試合を取材、観戦してきた。これらの試合のうち、僕が身の毛がよだつような危険を感じた大会がある。コパ・サンパウロ・ジュニオールだ。
 これは、1969年に創設された20歳以下の全国大会だ。毎年1月初めに開幕し、サンパウロ州内各地で試合が行なわれ、1月25日のサンパウロ市創立記念日(今年で471回目)に市内の巨大スタジアムで決勝戦を行なう。今年は第54回だ。
 プロクラブのU―20が参加する基本的にアマチュアの大会だが、出場する選手のほぼ全員がプロを目指しており、皆、自分の人生を賭けて死に物狂いでプレーするのが特徴だ。
 出場チームは、かつてはサンパウロ州内に限られていたが、1971年から他州、さらには外国のチームも参加できるようになった。
 1985年にはドイツの名門バイエルン・ミュンヘンの、1993年にはアルゼンチンの強豪ボカ・ジュニオルスのU―20が参加しており、日本からも1994年に名古屋グランパス、1995年に日本代表、1996年に東京ヴェルディ、2014年に柏レイソルのU―20が参加している。
 ただし、この時期のサンパウロ州各地は酷暑で、遠来のチームにとっては条件が厳しい。外国チームで唯一、GS(グループステージ)を突破したのが、2014年の柏レイソル。後に日本代表入りしたDF中山雄太(現町田ゼルビア)、元日本代表で昨年、Jリーグベスト11に選ばれたCB中田進之介(28、G大阪)らを擁し、ショートパスをつなぐ技巧的なスタイルで2勝1分という見事な結果を残した。地元メディアからも高い評価を受けたが、ラウンド16で、この大会で優勝したサントスに0―4と完敗した。
 今年は128チームが参加し、4チームずつ32のグループに分かれて総当たりで対戦。各グループの上位2チームが勝ち上がり、以後はトーナメント方式で行なわれる。
 冒頭の話に戻ろう。何がどう危険だったかというと、アマチュアの大会ゆえ長いこと入場無料だったのだが、ここに大きな問題があった。
 タダなので、プロの試合には来ない(来れない)貧しい男たちがここぞとばかりに押し寄せる。それだけならいいのだが、凶悪な顔つきをした、まるで昨日まで刑務所にいた、あるいはたった今、刑務所から逃げ出してきたような男たちが混じっている。
 彼らは、しばしば試合の途中で敵のチームのファンを挑発し、口論になり、それが殴り合いの喧嘩に発展する。スタンドの椅子を馬鹿力で引きはがして投げつけたり、といった狼藉を働く。ブラジルでは一般のファンも決して行儀が良いとは言えないが、その比ではない。
 遠いところで騒動を起こす分には、「ああ、またバカなことをやってるな」と傍観できる。
 ところが、あるとき、僕が座っていた近くで大喧嘩が起こり、一般のファンがパニック状態となって四方八方へ逃げ出した。そして、僕が座っていた方へ数人が走ってきて、あろうことか、僕の頭を跨いで逃げようとしたのだ。一人の男の膝が僕の頭を直撃し、脳震盪を起こしかけた。
 主催者のサンパウロ・サッカー協会も、さすがにこの状況はまずいと思ったのだろう。2010年代以降、低額ではあるが入場料を徴収するようになった。これでならず者が来なくなり(彼らは10円だって払わない、払えない)、以後は安心して取材、観戦できるようになった。
 この大会での活躍を踏み台にしてスター街道を駆け上がった選手は、枚挙に暇がない。
 優雅なプレースタイルのためローマで「王様」と呼ばれたMFファルカン(1972年)、天才的なドリブラーだったが23歳で夭折したMFデネール(1991年)、ブラジル代表のエースとなったネイマール(2008年、現アルヒラル)、15歳で大会得点王、MVPに輝いたエンドリッキ(2022年、現レアル・マドリー)ら。元日本代表FW三浦知良(57、現アトレチコ鈴鹿)も、1985年、キンゼ・デ・ジャウーというサンパウロ州内のチームの一員として出場。この試合での活躍が認められ、翌年、名門サントスとプロ契約を結んだ。また、彼の兄・三浦泰年は、2020年、北東部ソコーロの監督を務めた(1分2敗でグループステージ敗退)。
 ブラジルのフットボールの新年の風物詩コパ・サンパウロ。今年も、酷暑の中、プロを目指す若い選手たちが目の色を変えてプレーしている。

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