そういう状況下、日本移民が大量にブラジルに流入、綿を主作物とし米国産の市場を脅かそうとしていることが分かった!
これでは、米が自国産の綿を四割減産しても、効果はない。
それを知ったとき、ハル国務長官は、トサカに血がのぼったであろう。
以下は一部、筆者の“読み”を含む。
ハルは、右の動きに致命的な打撃を与える腹を決め、リオの米大使館に指示を下した。
これを受けて、大使館は、ミゲール・コウトの強硬な排日論、そして制憲議会に目をつけた。
まずコウトの排日論を有力なポ語新聞に掲載させ、世論を形成しようとした。
既述の一九三二年に起きたコウトの排日論に関してのジョルナル・ド・コメルシオの論調の急変は、その結果であった。
大使館は以後も他の新聞にも工作を続けた。新聞側がブラ拓の移住地の資金源まで知っていたのは、大使館からの情報提供があったためである。
大使館は、さらに制憲議会にコウトを送り込み、排日法を成立させようとした。
他にも既述の三人を抱き込んだ。
躍らせる議員は一人では寂しい。できるだけ多い方がよい。
右の三人の制憲議会での排日論の唐突さは、こう筋書きを読むと、疑問が解ける。
ハル国務長官がウルグアイ入りに先立って、リオ入りしたのは、大使館で工作の進み具合の詳細を聞き、新しい指示を出すためであったろう。
ブラジル時報によれば、その後、米の国務省は日本移民の棉栽培の現地調査のため、農務省の技師を派遣している。
同技師が調査結果を国務省に報告すると直ちに国務省から駐ブラジル大使S・H・ギブソンに工作強化の訓令がとんだ。
同大使は、一九三〇年のロンドン軍縮会議で、日本代表とやりあった人物で「米国の外交官中のキレ者」と評されていた。
彼の工作により、憲法の排日項目の成立に拍車がかかった││という次第である。
このほか、日伯新聞の記事の中には、
「(米側は)無闇に綿を作るなら、こちらにも考えがあるゾ、とブラジル側を威嚇した」
という部分もある。
かくの如きで、米は日本移民のブラジルへの大量流入、大規模な綿の生産・米市場への侵食の動きを潰そうとしていたのだ。
その大量流入は、米が一九二四年に日本移民の受入れを禁止したからである。
大規模に綿を生産し始めたのは、カフェーの国際価格が、一九二九年にニューヨークから発した世界恐慌が原因となって暴落、新植が禁止されたためである。
が、米は、そういう因果関係は無視していた。
ブラジル時報は、米の工作には「満州」も影響している、と断片的に記している。
こちらは歯切れが悪い。リオの日本大使館に駐在して居る陸軍武官に気兼ねしたのかもしれない。が、要するに次の様なことを言いたかったのだろう。
日本は一九三一年の満州に次いで、翌年、上海でも事変を起こし、同地方に権益を持つ米国を激昂させた。さらに満州国の建国…。
その日本が、米が自国の縄張りと思っている南米、そこに広大な国土を持つブラジルにまで、勢力を抹植しつつあると知り、驚き、警戒を一段と強めた。
それが今回の策謀となった。
ともかく米にとって、ブラジルに於ける「日本」は、目障りな存在だったのである。
買収
両紙の記事は、これで終わりではない。
以下、ブラジル時報要旨。
「米大使は、リオのアメリカ商業会議所を通して多額の金をバラまいた。参謀役は商務官であったようだ。
その結果、五月二十四日の制憲議会の票決で、林大使が徹頭徹尾、力と頼んでいた人物が寝返ったのを始め、大量の議員の票がコウト派の新々修正案承認に流れた。
昨年末、米国務長官ハルはリオ入りした時、サンパウロ州選出の制憲議会議員アルツール・ネイヴァと一緒に魚釣りをした。
ネイヴァは、以前、北里研究所の招待で訪日したことがあるが、その後日本の公館との間に面白からぬことがあって、反日的となっていた。
ハル長官に会ってから、彼は排日修正案を二十六人委員会に提出、議会で日本の帝国主義を非難する猛烈な演説を行なった。