ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(87)

 長谷川は、五月二十四日の採決の折は、日本大使館から四〇万円の機密費を引き出し、前日に要所々々に配り、翌日の否決に自信を持っていた。
 が、その夜、米側が四〇万ドルをバラまき、一挙に逆転した。
 長谷川は「四〇万円と四〇万ドルの差だった」と、生涯悔しがっていたという。
 ちなみに、当時の為替は一ドルが三円三八銭前後であった。
 それにしても、全部で百数十万ドルとか、最後に纏めて四〇万ドルとか、相手側の買収資金の額まで判るというのは、余程の情報力だが、どうも、米側にとって極秘ということでもなかったらしい。
 参考になる事実がある。邦字紙の反米キャンペーンを米大使館は放置したことである。ちっぽけな新聞であるが、もし記事が事実無根ならば、何らかの手を打ったであろう。ところが、そうはしなかった。
 一方で、これだけの情報が流れている。何故なのか?答はただ一つ「極秘の策謀ではなく、半ば公然たる工作だったから」であろう。
 ワザと情報を流し、その工作を、米国が展開していることを気づかせていたのである。“親愛なる”日本政府と日系社会への警告というメッセージを込めて。
 米は伝統的に、ゲーム感覚で半ば楽しみながら、こういうことをよくやる国である。
 因みに、このオペレーションの総元締の国務長官ハルは、別章で詳しく記すが、日本の対米開戦まで、対日外交を指揮、日本政府を翻弄する。
 彼は敵の敵と組むことを好んだ。例えば、支那事変では日本軍と戦う蒋介石を支援した。それに先立つ数年前、ブラジルでミゲール・コウトたちと組んで、日本政府と日系社会の足を大きく掬ったのである。

 邪道に踏み入る

 なお、制憲議会の議員の中には、既述の様に、アルベルト・トーレス友の会の会員が多く居た。彼らは制憲議会で、排日法成立に大きな役割を果たした。
 これには、アルベルト・トーレスの娘で、会員の一人であった博物学者エロイザ(後の国立博物館長)が愛想をつかし、
 「友の会は本来の使命とかけ離れ、邪道に踏み入った。これは父の名を辱めるものである」
 と、脱会届を出した。その際エロイザは、要旨、次の様に語って注目されている。
 「父アルベルト・トーレ
スは、ブラジル人である
前に、まず人間でした。
  従って、国家的問題を思索するに際して、人道的見地を離れることはありませんでした。
 ただし外国の帝国主義に対しては、それが資本にせよ移民にせよ、いかなる性質のものでも、ブラジルの利益が脅かされる場合は、防護する覚悟でした。
 父は常に、ブラジルの利益及び発展を損なうことなく、諸外国人の正当な利益に応じられる方法を研究していました。
 それ故、父の思想は、決して囚われたモノではなく、また排他主義の範疇に入るモノでもありませんでした。
 従って、父の衣鉢を継いだ友の会は、父の目的を全然はき違えており、全く失敗したというほかありません。
 同会は、当然、忠実に父の遺志を守り、その目的を推進すべきだったのに、卑怯極まる偏見による運動に流れてしまったのです。
 先日も、友の会の総会で移民問題に関する声明が起草されましたが、遺憾ながら公正無私な態度で研究されたものとは申せません。
 人種問題に関して、敵意を抱かせるばかりで、果ては非人道極まるものとなるだけです。
 私も総会に出席して、自分の態度を是正、釈明しましたところ、大変、丁重に扱われました。が、それだけで、問題が正当なポイントを離れ、脱線しかけていることを阻むことは出来ませんでした。
 それだからこそ、反人種偏見、国民同盟の分立などが考えられることになったのです。
 すでに同志中に、友の会が本来の目的の科学的研究に限定することを忘れてかかる無益な運動をしていることに、嫌気がさした者が多数おります」
 以上のエロイザの言葉は、翻訳に問題があって意味を掴みにくい部分もあるが、アルベルト・トーレス友の会のメンバーが、米の籠絡によって、学問の原則を踏み外していたことは判る。
 なお、エロイザは自分の研究のために、日本人とインヂオを比較研究するのだと、日本大使館によく出入りし、館では人気があったという。

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