さて、日系社会は完敗した。日本政府の敗北でもあった。
林大使は、帰朝命令を受けてリオを去った。
排日法阻止のため奔走した古谷重綱たちは同年九月、『伯国新憲法審議会に於ける日本移民排斥問題の経過』という小冊子をまとめた。
その中で、
「わが国移民事業に対する一大打撃であり、在伯邦人は勿論、故国日本に於いても人心に異常なる衝動を与え」
「吾人の失敗というに止まらず、わが朝野の伯国に対する認識不足、努力の欠如、外交の失敗を物語るもので、千秋の痛恨事」
と、その無念さを吐露している。
日系社会は三度目の危機に遭遇した。前二回の危機は、対策が考えられぬこともなかった。現にそれは講じられた。しかし今回は憲法が相手だった。難題であった。
歴史の歯車は、突如、停止した。
日本では、ブラジル熱が急速に冷却した。
移民数は以後、年々、ガタ落ちになった。
移住地の建設も、新規の計画は生まれなかった。
財界の投資も、一部を除いて、後は続かなかった。
拓殖事業家たちの動きも勢いを失った。
一九二四年以来、国策として展開されていた日本のブラジル戦略は、僅か十年で頓挫した。
前章で「邦人社会の歴史の水流は、やがて大河となり赫々たる光彩を放とう」と記したが、そうはならなかったのである。
隆起していた波頭は砕け散ったのだ。
米国の工作は、この点では、目的を達したことになる。
平生釟三郎
この歴史的危機の発生には、日本政府も愕然とした。無論、事態の好転を図ろうとした。そのため広田外相は、海外移住組合連合会の平生釟三郎会長にそれを委託した。
排日法成立の翌一九三五年六月、平生を団長とし、商社・紡績業界の代表者たちをメンバーとする使節団がブラジルに向かった。
メンバーの中には三井
物産、三菱商事、伊藤忠、東洋紡などの代表者が含まれていた。
この時、使節団が事態好転のため用意していたのが、綿の大量輸入計画である。
その頃、日本の紡績業界はブラジル産の綿に関心を寄せ、調査団を派遣していた。調査結果は良好であった。
そこで、大量輸入を具体化、ブラジルの朝野の対日感情を好転させ、排日の進行を食い止めようとしたのである。憲法の排日項目の修正も期待していた。
さらに、日本移民の主産物の一つは綿であり、それを買い付ければ、経済的支援、精神的励ましになるという読みもあった。
平生はすでに七十歳に近く、当時としては高齢であり、健康もすぐれず、海路ブラジルまで旅をするのは「老躯を駆って」のことであった。
それでも、夫人を付添として伴い、敢えてそうした。
無論、海外移住組合連合会の会長としての責務を自覚したためであった。
平生の生涯をまとめた一資料によれば、滞伯中、赤痢にかかり危険な状態になり、遺書をしたためたという。
使節団はブラジル入りした後、綿の大量買付け計画を発表、政府・民間の関係筋から大歓迎を受けた。
さらにヴァルガス大統
領に会った。平生は大統領の反応から、憲法の排日項目修正の期待を抱いたという。
翌一九三六年から日本側は、日伯綿花(ブラスコット)、三井物産、東洋綿花(南米綿花)、兼松、伊藤忠、ほかに中小商社数社が、サンパウロ、リオに支店や現地邦人を開設した。(カッコ内は現地法人名)
精綿を買い日本へ送った。
日伯綿花は平生が大阪に設立した会社で、その現地法人ブラスコットは、サンパウロ州内五カ所に、精綿工場を建設した。
この日本による綿の大量輸入で、両国間の貿易総額は数年で十数倍に跳ね上がった。
綿の市場価格は、数年、好水準を維持し、邦人生産者は経済的に潤い、生気を回復した。排日法の衝撃は大分和らいだ。
この成行きに対する米の反応に関しては、資料を欠く。