サンパウロ市では十月にスペイン風邪が流行して多くの死者があった、という噂が流れてきた。遠い街の出来事だった。
種を蒔き終ったが、雨は仲々降ってくれなかった。人々は毎日空を仰いで、晴れ渡った青空を眺めた。雨どころか雲一つない日が続いている。
十一月……。例年ならそろそろ日本の梅雨のような天候になるというのに、空は一点の曇りもなく晴れ渡り、空気は乾燥し切っていた。
十二月になっても雨は降らなかった。土に鋭い亀裂が走り、野菜の芽は遂に出なかった。米は、青田が黄色く変った。わずかに綿だけがヒョロヒョロと苦しそうに延びた。
昨年の六月に綿を売って幾らかの金が入ったきりだった。今年の豆は食べるにも売るにも足りない。カンテラを点す石油も買えなくて、どの小屋も日が暮れると暗くなった。
十二月の三十一日の午後彼は独りで墓参りに行った。
学校の近くに新墓地の敷地を用意したが、幸いに死者がなく、この旧墓地にしか墓標は立っていないのだ。
平野川の水車はゆっくりと廻り続けていた。しかし、来年はここで撞く米はなかったのだった。ドラード河に添った共同米作地は黄色を通り越してすでに赤く枯れ果てていた。
乾き切った風景の中に最初に入植者たちが建てた小屋が黒ずんで散在していた。主を失うと小屋はすぐ荒廃する。座礁し見捨てられた小舟のような眺めだった。大野勝馬が建て、そこで両親が死んだ小屋の傷みが一番早かった。ヤシの割木は柔らかくて扱いやすいが傷みも早い小川の上に作った小屋は丸太の根元が腐って崩壊していた。
小川の水かざし少なくなっているので小屋は流されもせず潰れた丸木の下をチョロチョロと水が流れていた。運平が近ずくとランバリの影が浅い水を下流へ走った。
運平は墓へのゆるやかな斜面を登った。息が切れた。
最初は体を動かすのが大儀だった。体が弱っていた。
墓標の一つ一つに彼は合掌した。移転した家族が骨を移したりしたので当時より墓標の数は減っていた。それでも五十以上はあった。
荒木謙蔵、荒木クノ、荒木静加と記された三基の前に佇んだ。彼はハンカチを出して鼻をかんだ。――乳が出ないーーといって泣いたクノの姿がまざまざと想い出される。死んでしまった母の乳房を吸っていた静加……。
気が狂って最後に死んだ謙蔵……。彼は墓に頭を下げた。