邦人生産の綿は殆ど日本へ輸出され、米国産の市場を侵食することはなかった様である。
なお、平生は訪伯時、宮坂国人と(海外移住組合連合会の現地機関)ブラ拓の経営方針を再検討した。平生自身は大統領による憲法の排日項目の修正に未練を残していた。
が、宮坂は、日本移民の新たな受入れ国を探すことを提案、平生も最終的には、これを了承した。
新たな受入れ国は間もなく、近くに見つかった。パラグアイである。一九三六年、宮坂は、そこにブラ拓職員を派遣、ラ・コルメナ移住地の建設に着手させた。
排日法、その後
一方、憲法の排日項目の施行細則の公布は遅れた。
しかし、入国制限は実行された。ために移民数は激減した。
同時期、欧州からブラジルへの移民がやはり激減していた。イタリア政府が国民の移住を抑制する措置をとったためである。
その結果、一九三五年以降、国内の労働力が不足、大問題化した。サンパウロ州内だけでも、四万人の日本移民に対する需要があった。
大統領は議会に「移民受入れ制限は、農業界の必要を阻む一大障壁」とメッセージを送った。
が、依然として強硬な排日論が存在し、その中には、
「将来、日米戦争が始まった時、日本はアマゾンの日本人地域を、対米攻撃の拠点にするであろう」
といった声まであった。
この頃、日米戦争の可能性が国際的に論じられていた。
大統領のメッセージは効果なかった。
一九三七年、ヴァルガスが独裁権を握った。この時、一九三四年憲法を破棄し、新憲法を制定した。が、排日項目は、そのままだった。
当時、ブラジル政府は米政府に経済援助を交渉中であり、先方を刺激することは避けねばならなかったのである。
翌年、外国移民受入れと集中居住に関する施行細則その他が、大統領の名で発令された。
これは一般的には「新
移民法」と呼ばれたが、その内容は、移民受入数や集中居住地に関しては、融通を利かせた部分もあった。
受入れについては、一九三三年末までの五十年間の入国数の二㌫、但し年間入国割当てが三、〇〇〇人以下になる国は、一律三、〇〇〇人まで認めることにしていた。
さらに、
「(新移民法の行政化のために新設された)移植民審議会は、一国にて利用せられざりし其年の割当て残余を、割当て残なき他の国の農業者及び農業技術者に、融通を利かせることを得」
となっていた。
これに対しては、日伯新聞によれば「某国に唆されたリオの新聞が、何度か、日本のみに便宜を与えることになると、攻撃記事を書いた」という。
が、そうした批判を、大統領は、
「融通に関しては、移植民審議会で十分審査する」
と押し切った。
新移民法は、この他、外国からの移民の教育、外国語の出版物などを規定する項目が含まれていた。
これが、邦人社会を直撃することになるが、詳細は七章で記す。
日系社会は、新移民法が公布されたとき、日本からの移民が再び増えることを期待した。が、そうはならなかった。
一九三八年は二、〇〇〇人台と、割当て枠にすら達せず、翌三九年以降は一、〇〇〇人台へ落ち込んだのである。
ブラジルに対する興ざめが急激に進んでいたのだ。
一方で、政府が満州移民に力を入れていた。一九三七年以降、二十年で百万戸を送り出すという壮大な計画すら作られていた。
新移民法は、集中居住については、入植地の人種構成をブラジル人が三割以上、同一外国人は二割五分まで、と、きびしい比率を義務付けていた。
しかし、その入植地については、「共和国、州、ムニシピオ、組合、個人の経営する入植地は、移植民審議会の監督を受ける」としていた。
日本移民の入植地は殆ど経営体が存在せず、単なる集団地、集落だったから、対象外となるわけである。
イグアッペ植民地も海興という会社が経営体であるから、対象外となろう。