小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=115

 「わしはこの植民地を閉ずる決心をした。あんたらの死を無駄にしてしまうのだ。どんなことをしても此処を成功させたかった。……しかし、もう駄目だ。雨が降らない。どうにもならんのだ。わしはこれ以上皆が苦しむのを見ておれなくなった」
 彼は土下座をした。
 「皆……許してくれ」
 涙を流しながら彼は墓標の群の一つ一つに詑びた。いつの間にか白い蝶の大群が彼をとり囲んでいた。
 森の水辺には蝶の群が棲息し、人や動物の血の塩分をしたってむらがり集まってくるからそれは珍しい現象ではないが、息もつけぬほどの蝶に囲まれて彼の視界は白く白く閉ざされた。
 彼はつかの間の白昼夢の世界にいた。
 「万才!」
 「万才!」
 と叫ぶ若々しい芦が聞こえる。その声に応えようと
して、彼はハッと我に還った。蝶の群が乱れ、墓標や背後の森が再び見えた。
 夢だった。森の中でみた一瞬の夢だった。
 彼は力なく立ち上った。クルクルと蝶は彼と共に移動したが、やがて高く舞い上った。乾き切った白っぽいザラザラとした空に、蝶たちの姿はすぐまざれてしまった。

 大正八年(一九一九)一月一日。
 「明けましておめでとうございます」
 全入植者の家長や主だった働き手が集まって来た。新年の挨拶を交わしたあと、運平は、
 「皆に言いたいことがある」と改まった。
 「この植民地を拓くために今日まで頑張って貰って平野は心から感謝しています。しかし、今やどうにもならない処まで来てしまった。今日は正月だと言うのに、我々はご馳走どころか食べるものも無い。三年半の苦労も遂に実を結ばなかった。わたしはこれ以上の苦労を諸君にかけるのは、とうてい忍び難い。この植民地を放棄する訳では決してないが、どうかもう一度コーヒー園に戻って再起の機会をつかんで欲しい」
 皆は答えられず黙っていた。
 「わしの不徳の至りだった。諸君にひどい苦労をさせた。深くお詑びする。どうかコーヒー園へ戻りもう少しは人間らしい生活をしていただきたい。お願いです」
 運平は深く頭を下げた。
 「平野さんはどうするつもりですか?」畑中が訊ねた。
 「わしは此処に残って、死んだ者たちの墓守りをしながら、皆が戻って来る日を待つつもりだ」
 「平野さんがいるかぎり私も此処で頑張りますよ」畑中は言った。
「私も残ります」
前田友吉、久保友一、山本佐太郎なども口々にそう言った。

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