ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(90)

 しかしブラ拓の場合は組合であるから、該当する。ためにブラ拓はバストス、チエテ、トゥレス・バーラス、アリアンサ四移住地を、逐次、自治化させた。経営体を無くしたわけである。経営体が存在しなければ、対象外になろう。
 併せて非日系人の入植を奨励した。日本人の集中率を引き下げ、同化を促進するためである。
 ブラ拓自身は一方で銀行部、商事部、鉱業部、技術部、綿花部、製糸部を設け、一個の事業会社へ転身した。(法的には、それぞれ別会社を設立して運営)
 銀行部は、前章で記した東山や海興のそれと同じカーザ・バンカリアで、一九三七年に営業開始、邦人集団地十数カ所に支店を設けた。
 以下は、翌三八年以降になるが、商事部は、国内四ヵ所に事務所や出張所を置き、カフェーなど農産物の対日輸出、日本からの機械類の輸入を行った。ウルグアイにも出張所を出した。
 鉱業部はリオに事務所を置き、ミナス、ゴヤス両州に六出張所を設け、雲母、水晶などの軍需物資を買付け、日本へ輸出した。
 技術部は、水力発電所の建設工事の請負などを事業とした。
 綿花部は、綿を日本向け輸出した。
 製糸部門はバストス、チエテ移住地で始めていた蚕糸事業を担当した。
 東京では、海外移住組合連合会が、一九三七年、日南産業株式会社を設立、ブラジル関係の事業をこちらに移管した。ブラ拓と連携、新事業を推進するためである。
 日南産業の資本金は、ブラ拓移住地の土地の分譲代金の未収分七二五万円と日本の民間資本二七五万円、計一、〇〇〇万円を充てた。

 アマゾンでも

 北のアマゾンでも、情勢は大きく変わっていた。
 パラー州では、南米拓殖が一九三五年から事業を縮小、アカラ植民地からも手を引いた。
 直営事業は採算割れ、植民地も軌道に乗らず、さらに排日法と悪材料が続き、日本の出資者が嫌気を起こしたのだ。
 創立者の鐘紡の武藤山治社長が死亡したことも影響していた。
 植民地では入植者は経済的に窮迫、栄養失調で体力が衰弱、病院はあったが、風土病が蔓延、死者が続出していた。
 南拓が手を引いたことで、士気も衰えた。結局、入植した二、一〇〇人の内八割近くが、一九四二年までに転出してしまう。
 彼らの多くは、海路、サンパウロ方面へ向かったが、一部がサントスで、海興の手で「救助された」という記録すらある。救助と…。
 アマゾーナス州では、マウエスでのアマ興の事業が、一九二八年の開始直後、破綻していた。
 現地責任者であった大石小作が日本本社と争い、職を投げ出し、後任にも人材を得ることができなかったためである。
 入植者の多くは、植え付けたグァラナーを放置して、他へ移動した。
 残留者は同じマウエスに入植した崎山比佐衛たちの協力を得て、その放置分の手入れをし、わずかの収穫を得て生きのびていた。
 崎山の植民学校分校の設立計画も進展していなかった。
 結局、アマ興の事業は一九三三年、上塚司たちのアマ産に合併された。しかし合併した方のアマ産も、アマゾーナス州から受けていた一〇〇万㌶のコンセッソンを無効化されるという災難に見舞われた。
 法的手続きが遅れている内に一九三四年の新憲法に「一万㌶以上のコンセッソンは、上院の承認を要する」という項目が盛り込まれてしまい、その承認を得られなかったのである。
 しかし、上塚は高拓生を送り込み続けた。その数は一九三七年までに計二〇〇人を超した。 ここも主産業に選んだジュッタ=黄麻=の軌道乗せが難航、入植者の多くがサンパウロ方面へ去った。
 そうした中、ジュッタの新種「尾山種」が発見され、前途に明るさが見えた。
 一九三五年、これを事業化すべく、日本で財界の大物郷誠之助が動き三井、三菱、住友、安田、東洋拓殖などが出資するアマゾニア産業㈱が発足、アマ産の事業を引き継いだ。
 これが日本の財界のブラジル向け戦前最後の投資となった。

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