巻き込まれる!
ここで話は少し逸れるが、前章で記した米国の日本移民受け入れ禁止の一件に、もう一度触れる。
この受け入れ禁止は、突然、独立して起きた現象ではなかった。
(第一次)大戦後に発生した日米関係悪化の中で起きた。
大戦で、日本は特需により巨利を掴み、参戦して中国の山東半島や西太平洋でドイツの権益を手に入れた。
これは、米の反日家には火事場泥棒と見えた。さらに日本の企業は、戦後の世界的大不況下、市場争奪戦が苛烈化する中で、苦し紛れに輸出商品のダンピングに走った。
米の財界人や彼らが操る政治家は激怒した。
これは英国も同様だった。
アングロ・サクソンは怒れば残酷になる。
それ以前、日本は明治維新以来、両国とは良好な関係にあった。ロシアとの戦争では、英との同盟、米の講和斡旋で、辛うじて勝利を得た。
しかし前記の様な経緯で、両国は大戦を機に対日観を大きく転換した。特に米では、日本とはいずれ衝突せざるを得ないと見做す論が強まった。
もともと、多くの歴史家が指摘するように、米は、その草創以来インデアンを駆逐、メキシコを破り、大陸を西へ西へと領土を広げ、太平洋岸へ行き着くと、次はハワイ、フィリピン……と版図を広げていた。(この間、カリブ海方面にも勢力をのばしていた)
さらに中国大陸に向かいつつあった。そこに縄張りを確保しようとしたのだ。しかし、その中国ですでに縄張りを広げつつある国があった。日本である。
米にとっては邪魔な存在だった。そこでリーダー・シップをとって、一九二一年末から列強参加の海軍軍縮会議をワシントンで開催、アジア特に中国大陸に対する日本の進出を牽制した。
加えて日英同盟を廃棄に持ち込んだ。いうまでもなく米英は、外交では古くから一体関係にあった。その英が日本と同盟関係にあるのは、甚だ不都合だったのだ。
一方、大戦後、米は日本製品排斥の国際世論を煽り、英などこれに同調する国々と共に、高関税の障壁を築く作戦に出ていた。
そうした中で、一九二四年、日本移民の受け入れを禁止したのである。
つまり、この移民受け入れ禁止は、米の日本に対する感情の悪化の中で決定されたのであった。
本章で取り上げたブラジルに於ける排日法成立にも、その感情が影響していた臭いがする。
そういう歴史の流れが形成されつつあったのである。
ブラジルの日系社会は、日米の本国同士の関係悪化の渦潮に巻き込まれてしまっていたのである。
さらに七章以降で記す日系社会への締め付け、戦時中の迫害、終戦直後の騒乱でも、それは続く。
六章
産組、台頭
前章で触れた様に、日系社会は、一九三〇年代、祖国日本と米国の関係悪化の渦潮に巻き込まれた。
それが最初に表面化したのが、三四年の排日法の成立である。
これで歴史の歯車は停止した。隆起していた波頭は砕け散った。このまま行けば、急激に衰微していたであろう。
しかし、ここで、それに抵抗する動きが二つ生まれた。
一つは、既述の平生使節団によって始まった綿の大規模な対日輸出である。邦人農業者の綿の生産が急増、主産業の一つになった。
もう一つは産業組合の台頭である。
綿と産組、この二つが活気を支え、歴史の歯車を再び回転させ始めた。
平生使節団と綿については前章で記した。
産組は一九二〇年代後半から、各地で次々設立されていた。(その経緯は四章参照)
初期の頃は目立たぬ存在であったが、排日法成立の頃から、表舞台に登場してきた。
中央・地方で中核的役割を果たし始めた。しかも長期的に、その数を増やし、力を強めて行く。
日系社会は、農業者が大部分を占めていたから、以後、ほぼ半世紀に渡り、その歴史の水流の主要部分を形成することになる。
その産組の中でも突出していたコチア産組などは、後世、組合員も従業員も一万人以上という大組織に発展する。
産組としては非日系も含めて、終始ブラジル最大であった。
しかも、単なる組合の域を脱して、一つの新社会を建設しようとしていた。(つづく)