コチアは、組合員の家族も組合の構成員と見做していたから、その新社会は数万という規模になった。
詳しくは後述することになるが、これは革命的挑戦であった。
日本人が異国に渡って、これだけ大胆な発想をし、行動したケースは他にない。驚嘆に値する。日本民族の平和的手段による海外発展史上、最も注目されるべき事績である。
そのコチアを牽引したのは下元健吉という高知県人である。
平和的手段による海外発展を図った日本人の中では、最も存在感が重厚な傑物である。
但し、その様なことは、日本の歴史資料には記録されていない。歴史家の目が、戦争以外の海外発展史には未だ届いていないのである。
もっともブラジルでも、コチアや下元を、そういう具合に認識している人は居ないであろう。昨今、若手の中には、コチアも下元も知らない者が少なくないという。唖然とするほどである。
それはともかく、この六章では、産組の台頭を概観することになる。台頭…といっても、初期の頃は蹉跌と試行錯誤が続いた。
石橋の失敗
ブラジルで、産業組合法ができたのは一九三二年であり、他国に比較、やや遅い。
しかし、それ以前からその種の事業体は、存在していた。別の会社法で設立、産組方式で経営していたのである。ただ数は少なかった。
日系の場合、それが初めてできたのは一九一九年である。
四章で僅かに触れたが、ミナス州南端の町ウベラーバに居った石橋恒四郎が、近くのコンキスタという地域で米作りをしていた邦人農業者たちを誘って創った。
石橋は獣医で、その頃、農工商務省のウベラーバ畜産局の副主任をしていた。当時、そういう具合に政府機関に入り込んでいる日本人は珍しかった。
石橋は一八八四(明17)年、北海道に生まれている。父親が──三章で登場した──山県勇三郎と親しかった。その関係で、小学校卒業後、山県の息子と共に東京の暁星学園に入学した。ここでフランス語を学んだが、これが後にポルトガル語を習熟する上で役立ったという。
石橋は駒場の農大獣医学部に進み、卒業して根室・千島畜産組合に勤務した。
一九〇九年、山県の招きで渡伯、その農場に身を寄せた。ただし長くは留まらず、アチコチ転々としながら、米作りや漁業を試みた。
一九一三年、農工商務省の獣医・畜産技師試験に合格、マット・グロッソ州、ゴヤス州などの畜産局を経て、ウベラーバへ移った。
そこで獣医として勤務している時、コンキスタの邦人の米作りに着目、産組の設立を思いついた。北海道時代、畜産組合に勤務した経験を生かそうとしたのである。
当時、コンキスタには、数百家族の邦人が居って、相当の成績をあげていた。そこは河岸であり、マラリアの危険はあったが、凌げぬほどではなかった。
石橋は入植者を説いて三五〇人の賛同を得、組合を設立した。
日本語では日伯産業組合と名乗ったが、前記の様に産組法がなかったため、ポ語では別名であった。
組合長には石橋がなった。
この組合創立は、重要な歴史的事実である。ところが日系社会史に関する資料類の中では、石橋の名も組合の名も片隅に僅かに記されているに過ぎない。
これは創業数年で、経営が行き詰まり、石橋が組合長の職を投げ出し、組合も消滅したことによる。
行き詰まったのは、彼の放漫経営が原因だった。組合員への融資やその回収が厳しさを欠いていたという。
組合長を辞めた石橋はサンパウロ、その近郊、ゴヤス州…と転々としつつ、農業雑誌の発行、植民事業、大豆油の製造、雲母の輸出、銀行勤務、商事会社経営、蔬菜栽培、養鶏…と様々な仕事に手を出した。
が、いずれも大きく成功した形跡がない。
才子であったかもしれないが、どうも器用貧乏に終わったのではないか…という印象を受ける。