抗争の砦
日伯産組の次に姿を現したのが、コチア産組である。一九二七年の暮れのことであった。
三章で少し触れたが、サンパウロの西方二十数㌔、波状形の丘陵地帯に位置する寒村コチアのモイーニョ・ヴェ―リョという所で、邦人のバタタ生産者たちが設立した。
ここの邦人は、その後増えており、組合参加者は八十三名となった。但し外部からの参加も含まれていた。
この組合は、バタタの仲買人との抗争の砦として、設立が企てられた。ただ、その誕生はいわゆる安産ではなかった。数度に渡り流産している。
抗争の砦…というのは、次の様ないきさつによる。
その頃、生産者たちは収穫したバタタを、サンパウロの西端ピニェイロスに在る青空市場に運び、仲買人たちに販売していた。
市場といっても「しじょう」ではなく「いちば」と表現するのがふさわしい規模だった。そこにバタタを運び、仲買人に相対取引で売っていた。
しかし、そのスペイン系、イタリア系の仲買人に狡猾に利を奪われることが少なくなかった。
取引は商慣習としてリットル舛で量っていたが、仲買人たちは手加減で誤魔化した。
また、日中は売り場に近づかず、夕方になってやって来て取引するという手も使った。生産者が売れ残りが出るのを恐れて、値引きするのを狙って…のことである、
売れ残ると、それを保管する倉庫もなく、持ち帰ることも難しかった。売り場に置いておくと、夜盗まれる。雨でも降るとビショビショに濡れて商品価値がガタ落ちになる。
生産者たちは「今にみておれ」と呻いていた。そして闘いを挑んだ。団結して取引は「重量制にすること」「六〇㌔入りの袋を使用すること」を仲買人に強硬に要求、承諾させたのである。秤を購入して使用した。
悪質な連中には販売を拒否した。一九二三年のことであった。
この闘いの中心にいたのが、村上誠基という高知県人だった。歳は、三十を少し越していた。
郷里では独学で検定試験を受け、小学校の教員をしていたという。渡伯は一九二〇年で二、三年前のことである。その程度の経験で、闘いを主導したというのだから、それなりの人物だったのであろう。
話を戻すと、仲買人に新しい取引方法を承諾させたといっても、抗争は終了というわけにはいかなかった。
その頃、市場へ通ずる道路が改修され、輸送は牛車から貨物自動車に変わった。自動車の時代が来ていたのである。ただし輸入車であるが…。
輸送が楽になったため、バタタの生産地が広まり、出荷量が増え、小さな市場は荷が溢れるようになった。
仲買人たちが待っていた事態だった。彼らは、前記の「夕方に取引をする」という手を使って買い叩いた。
対策は産業組合の設立以外なかった。組合をつくり、資金を出し合って市場の傍に倉庫を建て、バタタを保管するのである。
この倉庫を拠点に、販路をサンパウロ市内に広げるという目論見もあった。
さらに組合は悪質な肥料商の排除にも役立つ筈だった。彼らにも煮え湯を呑まされていたのである。購入した化学肥料に、品質の粗悪なモノが混じっていたり、暴利を貪られたりしていたのだ。
化学肥料は殆ど輸入品であった。だから組合で直に輸入、購買部で組合員に安く配給しようとした。
ともかく商人に対する生産者たちの感情は悪く、普段から「ぬすっと!」と罵っていた。利益の盗っ人、という意味である。
つまり産組というものを、理論的にではなく、体験的に利を巡っての抗争の砦として認識していた。
モイーニョ・ヴェ―リョでの産組の設立構想は早くからあり、具体化への動きも四度もあった。
最初は一九一八年一月で、以後、三度繰り返された。が、資金を分担できぬ者がいたり、全生産者が降霜に見舞われたり、一部の人間の独走が嫌われたり…で、実現しなかった。
それが一九二五、六、七年、バタタの市況が良く、軍資金が幾らかできた。そんな折(四章で紹介した)日伯新聞の三浦鑿が、紙上で産組設立を慫慂した。
日本総領事館に「邦人農業者の産組奨励予算」がついたことを知り、モイーニョ・ヴェ―リョを取材、その記事を書いたのである。
さらに、総領事館の農事部の職員が訪れ、組合の必要性を力説した。
これに応じて、村上ら有志が動き、生産者たちを説得して歩いた。
かくして「有限責任株式会社コチア・バタタ生産者産業組合」が誕生した。(つづく)