ただ、エピソードの日時や場所がハッキリしない場合は、前後の関係から筆者が推定して書いた。ついでに言えば、オットーがピストルを撃ったのは、土地を見せに行く山径でだったかもしれない。この場面は叙述がやや変えてある。
入植当時のマラリヤの犠牲者は六十余名とも七十余名とも伝えられているが、今回は正確な数を確認できなかった。ここには、私が調査して死亡日時までを確認できた四十三名の名を哀悼と鎮魂の心をこめて誌した。平野植民地に入植した人々の苦難は今日からみると異状なほどであるが決して特殊な例ではなく全て開拓者が味った苦難であった。グァタパラ農場があったモジアナ地方から移って、平野植民地を皮切りにノロエステ線を拓いていった開拓者たちの回想を聞くと、大正期から昭和初期にかけて全ての人々が平野植民地と大同小異の体験をくぐっている。私は特異な例としてではなく、典型として平野植民地を選んだのだ。
平野植民地は、運平の遺言を守り、昭和十年に隣接した土地に更に三八五〇アルケール買い足して栄えた。森が畑に変わるにつれてドラード河の水量も増えた。今は四、五メートルの河幅になった。
松村総領事に運平が借りた金は、後に村人たちが出し合って日本へ送った。松村貞雄はすでに亡く菊子未亡人から「志だけをいただく」という手紙と共に金は返送された。その金は松村奨学金として今日も生きている。
かつての第八区に、森を背後に負って墓地がある。二月六日の運平の命日には「平野さんはこれが好きだったそうだ」と言って、人々はピンガを黒い墓石にかける。(終)