産組法がなく株式会社法を利用したため、こういうヘンな名称になった。数年後に産組法ができた時「コチア産業組合」と改称している。
ところで創立時の役員であるが、理事長には、それまでの経緯からして村上がなるのが自然であったが、意外なことが起きた。当人が固く辞退したのである。理事長などになると、自分の仕事が疎かになる、という理由による。ほかにも引き受け手がいなかった。
ここで一人、引き受け手が現れた。これが下元健吉である。彼は抗争でも組合設立でも活躍していたが、未だ理事長に相応しい声望はなかった。独立農ですらなかった。(下元家の農場は、実兄の名義になっていた)
しかし、ほかに人がいなかったので、理事長は下元ということになった。二十九歳であった。
他の役員も一人を除いて皆二十代だった。理由は理事長職の場合と同じである。
新役員の殆どは青年会のメンバーであった。
ともあれ、組合はでき、総領事館からの奨励金も出た。倉庫も建てた。
組合本部はモイーニョ・ヴェーリョからピニェイロスの倉庫の傍へ移転した。
前半生は不運と失敗続き
さて、新理事長になった下元健吉であるが。──
ブラジルに於ける邦人の産組の生成と興隆は、この下元を中心に追究すると、判り易い。
ただ筆者は、これまで、この人物については、何度も記事にしている。従って、以下は繰り返しになる部分が多い。ご容赦願いたい。
先に筆者は、下元を傑物と表現したが、彼は決して偉人ではなかった。欠点の多い人間であった。
それと、偉人という言葉からは、完璧な人格、偉大な事業が浮かび上がってくるが、完璧な人格の所有者などというものは、古来いずれの国にも存在しない。
また下元は、少年期から青年期にかけては不運であった。コチアの理事長になってからは失敗続きであった。
傑物ぶりを発揮するのは、年齢的には三十代後半以降のことである。
彼、下元健吉は、高知県の山間の農家に一八九七年、明治三十年に生まれた。小学校時代は成績が良く、担任の教師が高知市の中学に進ませようとして、父親の説得を試みた。
が、父親は承知せず実現しなかった。
明治は、福沢諭吉の『学問のすゝめ』が社会的に大きな影響を与えた時代である。
成績優秀な学童たちは、上級学校への進学を強く望んだ。
それが立身出世の道であると誰もが思っていた。
小学校でも唱歌にある様に「身を立て名をあげ、やよはげめよ」と教えていた。
健吉は悔しかったであろう。が、仕方なく地元の高等小学校に入った。それでも、そこを出た後、上の学校に進むという道は残されていた
ところが、父親が事業に失敗、多額の借金をつくってしまった。進学の夢は完全に断たれた。
一九一四(大3)年、実兄が妻子を伴い、ブラジルに移住することになった。その頃「ブラジルには金の生る樹がある」という誇大な宣伝もしくは噂が流れていた。
□金の生る樹とはカフェーのことであり、その農場で働けば、ひと財産稼げる、という意味である。
移民会社側の人間が流した誇大な宣伝もしくは単なる噂であったろうが、それを信じる素朴な庶民が多かった。実兄も、その一人で、ひと財産稼いで帰り、父親がつくった借金を清算しようとしたのである。
この時、健吉の内部で何かが爆発した。「自分も行く!」と叫び、頑強に主張したのである。
周囲の制止の声も撥ねつけ、両親と祖父を残して出発してしまった。十六歳であった。
□彼も「金の生る樹」を信じ、進学に代わる活路を求めたのであろう。
かくして、渡航、サンパウロ州西南部、奥ソロカバナ線ピラジュー駅のボア・ビスタというファゼンダに入った。
このファゼンダに関する詳細については、資料を欠くが、時期と場所から推定すると、裕福なブラジル人が経営するカフェー園であったろう。
ここで一家はコロノ(契約制の労務者)として働き始めた。が、思惑は大きく外れた。金の生る樹どころか、米の飯を食べたら借金が残る──という惨憺たる稼ぎにしかならなかったのだ。
一家はさつま芋やマンジオカを齧りつつ重労働に堪えた。後年、実兄は「アソコで生まれた次男は今でも身体が弱い。酷い食べ物だったからのう」と嘆いていたという。