体にしみ込んだサンバのリズムが魅力
日本からブラジル音楽研修の目的で来伯する若い人たちの面倒を見てから半世紀以上になるが、1970年代には多くの人が「好きなミュージシャンはワルター・ワンダレイだ」と言っていた。特にキーボード奏者にとってワルターは教祖的な存在であった。
彼はブラジルではヴァルテル・ヴァンデルレイだが、米国経由で知られるようになったので日本ではワルターと呼んでいる。「後にも先にもワルター無し」などと言われた音楽家に後継者が出なかったのは何故か―。
それはボサノーヴァ・ブームがすぐに去ってロック・ブームになったのも一因である。だがそれ以上に、テクノロジーの進歩によって電子楽器がパーカッション・サウンドを出すようになり、苦労して両手両足でリズム感を出す努力をする必要がなくなったからであろう。
ベース、ドラム、パーカッションなどのバックなしのソロ演奏で、ピアノやオルガンがサンバのスイングビートを出すのは難しくて、体にリズムが沁みついていないとできない技である。
その証拠に外国人でボサノーヴァを好んで演奏したハービー・マン、スタン・ゲッツをはじめ日本のナベサダに至るまで全員が管楽器奏者であり、リズム・セクションのバックに乗っていればよいのだ。ところがピアニストやオルガニストが一人で演奏する場合には、サンバのリズムが身についてないと様にならない。そこにワルターの魅力があるのだ。
聴衆の熱心な態度にも感動して日本に惚れ込む
ワルターは1932年ペルナンブコ州都レシーフェに生まれて1950年時代後半にサンパウロへ移り、ナイトクラブ「アルペジェ」でピアニストとして働き始めた。その時にハモンドオルガンのサウンドに惚れ込み、自己流でサンバ・ビートの気持ち良いバランスの演奏法をあみ出したのである。
彼は、当時のトップスター歌手イザウラ・ガルシアと結婚して専属伴奏者となったので一躍有名になった。当時サンパウロの音楽殿堂だったコモドーロ・ホテルのキャプテンズ・バーのアフターアワーに、私はワルターと同郷のテナーサックス奏者アントニオ・アルーダと一緒に行ってジャムセッションをやったことがある。あの時の、共演者を自分のペースに引っ張り込んでいくワルターのホットなタッチが忘れられない。
その後、彼は離婚トラブルもあり、フィリップス・レコードの仲介で渡米したっきり、ブラジルへ帰ってこなかった。ロスアンゼルスでチリ人と再婚して新生活に踏み出したが、セルジオ・メンデスのようなヒットは出なかった。
1980年代に深酒で体調を崩して仕事に支障をきたし、デプレッションに落ち込んでいたワルターを日本へ呼んだのは、東京四ツ谷のブラジル・レストラン「サシーペレレ」のオーナー故小野敏郎氏である。小野リサと共演したり、多くのコンサートで歓迎された彼は、聴衆の熱心な態度にも感動して心から日本に惚れ込んだのである。
ロスで病に倒れた時、彼は小野氏へ電話した。「二度も日本へ呼んでくれて感謝しているよ。大変お世話になりました。皆さんにくれぐれもよろしく」―ワルターはもう長く生きられないと感じて日本のファンへ別れを告げたかったのに違いない。
大島守氏が記す興味深いエピソード
ここで日本公演旅行に通訳兼マネジャーとして同行したブラジル音楽評論家、大島守氏の著書『ボサ・ノヴァが流れる午後』(中央アート出版社、1990年)にワルターについて興味深い話が書かれているので紹介しておこう。
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ワルターが渡米後1966年にクリード・テイラーのシリーズに録音したサマー・サンバのアルバムがヒットして有名になってから十数年後に長期間来日していた時のことである。地方都市ショーで私が一曲だけトム・ジョビンのスタイルでメドレーを弾き、彼がシンセでストリングスのバックをつけることにした。彼は「君がピアノを弾くなんて知らなかったよ」と喜んで、やがてジョビン論となった。
かねがね思っていた「ウエイヴ」のサビの終わりから頭に入るところの不自然さを彼にぶつけた。1956、7年までサンバカンソンを作曲していて突然、変わった曲が現れるのも不自然だし、それはニュートン・メンドンサとの共作曲に強く感じる。「実はニュートンが作ったんじゃないか、と思ってるんだが」と私が言い出すと意外な展開となった。
「僕のフルネーム知ってるね。そう、ラストネームがメンドンサ、実は我がメンドンサ家はレシーフェがルーツで、父はオランダ系の僕の母と結婚し、叔父は黒人系ハーフの女性と結婚してリオに出てきた。その子供がニュートン・メンドンサ、つまりイトコ同志っていうわけだ。僕は色が白いが彼は浅黒い。でも顔立ちが似てるとこあるよ。それに二人ともピアニストだしね」
私が「ニュートンはすごくいいセンスのピアニストで作曲家だったと聞いているが」と言うと、ワルターは「サンパウロにいたので付き合いはなかったが、1960年に死んでから彼の偉大さが分かった。あの頃彼は貧しくて病気がち、あまり人と会いたがらなかったけど一風変わったいい曲を弾いていた。あれがボサ・ノヴァの原型だったことは間違いない」と言った。
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ワルターが初訪日して感心したのは、大島氏のブラジル音楽の弟子でウクライナ系白系ロシア娘歌手、マリーナ・ピスクノーヴァと共演した時、彼女がタンボリンを叩きながらサンバをポ語で歌えることであった。更に教えたのが日本人なので驚愕して大島氏と息が合う親友となったのである。それ以来日本のファンとなったワルターは「外国文化を深く追及する感受性に富んだ日本人を尊敬する」と大島氏に述懐したそうである。