下元一家は、稼ぎ以外にも、堪えがたい苦痛を味わった筈である。
当時のファゼンダは中世の荘園色を色濃く残していた。
そこで働く労務者は、元々は黒人奴隷であった。それが十九世紀末、奴隷制が廃されたために、代わりに導入されたのが移民である。だから農場主や支配人、現場監督の労務者観は奴隷時代とたいして変わってはいなかった。
従って酷い場合は、その住まいは家畜小屋同然で、家具も便所もなかった。農場では現場監督が馬上、拳銃を腰に、鞭を鳴らして怒声で命令した。早朝から夕方まで過酷な労働が続いた。医者も居ず学校も無かった。
一方、農場主の住居は邸宅であった。
周囲に回廊を巡らした白亜の殿堂の場合もあった。その玄関は、円錐形の柱が両側に立ち、庭に降りる階段は十数段という豪華さだった。
農場主はサンパウロやリオなど大都市に住んでおり、時々やってきて支配人と話して行くていどだった。その夫人たちが来ることもあったが、従者をつれて散策していた。
彼らは豊かさを発散させていた。
労務者家族は貧しさを発散させていた。
下元一家が居ったファゼンダ、あるいは彼らが目にした近くのファゼンダも、多かれ少なかれ共通する所があった筈である。
高知県人は、誇りが高い。特に下元健吉は、その眉太く口も大きく、鼻と頬と顎が突き出している…という骨相と鋭い眼光から観ても、その誇り高さは強烈であったに違いない。
稼ぎの少なさやファゼンダの実態を知って全身から血が引き、怒りが燃え上がったであろう。
彼は後年、前記の新社会建設に命をかけることになるが、その火種は、このファゼンダで心中に生まれたように思われる。
下元一家は一年で、そこを出て、モイーニョ・ヴェ―リョに移った。一九一五年のことである。
健吉は十七歳であった。近所の人々からは「下元の健さん」と呼ばれた。本稿でもしばらく、それに倣う。
当時、下元家は貧しく、営農資金すら持っていなかった。ために初年度は弁当持参で日雇いに出て食い繋ぎ、二年目に借地して石油缶一杯分のバタタの種芋を植えた。
暮らしは質素で食事も粗末なモノであった。健さんは、米の飯食べたさに月夜にブレージョをカボッカしていたという。湿地を掘り返して稲田を作っていた、という意味である。
下元家の借地農は七年続いた。つまり恵まれた営農状態ではなかった。
そう具合に不運は続いていたが、健さんは卑下することなく、若者仲間と語らって青年会をつくり、農作物や農作業の研究に精を出した。ただ青年会といっても、戸数が未だ少なかったため、会員は十数人であった。
その頃、モイーニョ・ヴェーリョの生産者たちは、バタチーニャと呼ばれる小粒の馬鈴薯をバタタ・オーロとよばれる大粒のそれへ改良しようとしていた。その過程で彼らを苦しめたのがベト病である。
このベト病に予防薬としてボルドー液というものがあることを、健さんが近所の家で目にした日本から届いた雑誌で見つけた。
早速サンパウロへ出掛け、人の指導も得て、原料を入手、調合方法を調べて帰り、自分の畑で実験した。結果は良好であった。
そこで、青年会仲間にも使用を勧めた。「金がない」と断わられると、自分の薬を持ち込んで散布した。ベト病問題は解消に向かった。健さんは、青年会の頭株になった。
右の逸話からは、優等生的なイメージが浮かんでくる。が、別の一面もあった。
友人だった栢野源蔵という人が、思い出話を書き残している。ある時、源蔵は馬喰のところへ馬を買いに行った。健さんが同行した。源蔵は、毛並みの良いおとなしそうな馬を探した。が、健さんが一番獰猛そうな奴を選び、無理に源蔵に買わせてしまった。
が、これが大変な曲者で咬む、蹴る、牧柵をいくら高くしても跳び越してしまう…という暴れ馬だった。ウンザリして、健さんに買い取って貰った。
二、三日して源蔵が様子を見に健さんの家へ行くと、厩の屋根がぐらぐら揺れている。中に入ってみると、例の馬の足と胴体を、柱に綱でがんじがらめに縛ってあった。馬は口から泡をふきながら、もがいていた。
数日後、健さん、大人しくなったその馬に悠然と跨って、源蔵に見せにきた。以後、この馬は競馬でも畑仕事でも、健さんが手綱をとると、敵う馬はなかった。
また源蔵は、こんなことも書いている。二人は時々釣りに行った。ある日、健さんは「一匹ずつ釣っていては、夕食のおかずに間に合わない」と、ダイナマイトを川に投げ込んだ。こうすると、その辺にいる魚が全部、浮かぶ。