ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(96)

 大ポカ連発

 この健さんが理事長になったのである。
少年時代の夢「身を立て名をあげる」チャンスかもしれなかった。
 しかし、組合経営は生易しいことではなかった。健さんは苦しみ続けた。最も苦しんだのは内部の統率であった。数年の間、大ポカを連発した。
 ずっと後年「笠戸丸以来五十年、漸くできあがった大指導者」などと評されることを思うと、信じられないほどだった。
 もっとも健さんは、未だ二十代の末から三十代初めという年令であったし、青年会活動くらいしか組織運営の経験がなく、統率とは何か…を学ぶ機会もなかったから当然であろう。
 当時、モイーニョ・ヴェーリョでは、統率術といえば、日本の農村の伝統的なそれである「村八分」ていどしかなかった。
 これは、実際に行なわれた。例えば組合創立以前、バタタを市場に運ぶ牛車の割当てに関して、日本人会がこの非常手段をとった。
 牛車は、生産者たちが各々御者付きで雇っていたが、バタタの生産増が急で台数が不足した。すると、生産者同士が運賃を競り上げるようになった。
 そこで日本人会で一括して雇い、会員に割り振ることにし、これに従わない者は、会から除名、道で出会っても口もきかない…という制裁を加えたのである。
 牛車の問題は自動車時代が来ると、自然消滅した。
 が、新たな難題が生まれた。「抜け売り」である。抜け売りとは、組合員が生産物を組合に出荷せず、仲買人に直接売ることをいう。
 組合経営は全面出荷が前提であり、抜け売りが出るとガタがくる。そこで、これも八分ということになった。
 しかし、一九二九年に始まった世界恐慌の煽りを受けてのバタタの市況暴落の中では、抜け売りに歯止めが効かなくなった。
 誰もが緊急に現金を必要としていた。数年続いた好況で気を大きくして、借金までして植付けを広めていた者が多く、土地や自動車を差押えられる恐れが出てきたのである。
 健さんは八分で、抜け売りを止めようとしたが、ダメだった。世界恐慌に八分で対抗しても、当然、無理であったろう。
 かくして、発足したばかりのコチア産組は早くも危機に直面した。
 しかも、その最中、健さんは大変なしくじりを犯した。夜間、乗用車で走行中、事故を起こし、人を一人死なせてしまったのである。
 組合の創立前後は、その仕事のために車を二台乗り潰したというから、運転は慣れていた筈である。この時は、抜け売り対策の疲れで前方不注意になっていたのだろう。健さんは自首し、理事長を辞職した。一九二九年末のことである。
 「身を立て名をあげる」夢は吹っ飛んだ。
 組合の危機は翌三〇年も続いた。しかも同年十月、従業員による拐帯事件が起きた。事件は翌年一月に表面化、当時の日伯新聞は「組合幹部、血眼で捜索中」と報じている。
 二月、遂に懸賞金つきで、その従業員の捜索広告を邦字新聞に出した。
 拐帯金額は四〇コント余、懸賞金は二コントであった。サントスから日本までの船賃が三等船室で一コントの時代のことである。
 が、結局、無駄に終わった。拐帯したその従業員は、アルゼンチンへ逃げていたという。
 四月、健さんは専務理事として理事会に呼び戻された。理事長には別の人間がなったが、采配は健さんに任された。この難局下、采配を預かる人間が、ほかに居なかったのである。
 拐帯犯人は健さんが理事長時代に雇った人間であり、その責任をとれ、という含みもあったろう。
 この時、健さんは必死の資金繰りをしてみたが、どう足掻いてみても、建直しの方策はなかった。
 一切を投げる腹を決め悄然と帰宅途中、彼の支持者である一老人の家へ寄った。健さんは「もうイカン、止める」と事情を打ち明けた。
 静かに聞いていた老人は、懇々とその考えが非であることを諭し、こう励ました。
 「組合がなければ百姓は立ち行かん。自分が資金集めの協力をするから、もう一盞(一度)やれ」
 この言葉に、流石の健さんも泣き伏したという。
 結局、老人の肝いりや総領事館の勧業部員の口添えにより、組合員有志一三人が特別出資金を醵出、窮地を脱した。(勧業部=前農事部)
 が、統率は依然、不安定なままであった。

最新記事