ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(100)

 右の文中の〝部落〟〝倉庫〟は、コチア用語である。部落は地域を単位に組織された組合員の末端組織で、倉庫は組合員のために各地に設けられた(文字通りの)倉庫や事務所などから成る事業拠点である。
 〝倉庫〟は後年、事業所と改称されたが、〝部落〟はそのままだった。(本稿では、以下、倉庫は事業所と表記) 
 やはり一九三八年、コチアは農務省がリオ郊外で進めていた植民地の造成に参画した。 フェルナンド・コスタ農相の要請によるものであった。
遂にブラジル政府の閣僚までコチアを知り、評価するようになっていたのだ。
 彼ら以前に、日系社会で、これだけのことをやってのけた事業体はない。
 何故、できたのだろうか? それは既述した事以外では時勢の力が大きかったであろう。

 時勢の力

 時勢の力とはサンパウロ市の人口の膨張とそれに伴う食糧需要の増大である。
 一九一四年、第一次世界大戦が始まると、その影響で、ブラジルはそれまで輸入に頼っていた工業製品の入手が困難になり、否応なく自国で生産する必要に迫られた。一方で、参戦国に対する加工品の輸出が急増した。
 ために商工業の中心地サンパウロでは、その経済活動が飛躍的に活発化した。
 すると、労働力が集中し胃袋の数が増え、それを満たすための農産物に対する需要が強まった。その内、長期保存に不向きなものは、近距離で生産され、継続的に市場に運び込まれる必要があった。 
 それ以前、近距離での農業は、欧州系の移民が小規模に蔬菜づくりをしていた程度であった。
 邦人農業者の出番となった。奥地つまり内陸部から、サンパウロ近郊、周辺地帯への移動現象が起こった。
 大戦は四年で終った。が、サンパウロの人口増は止まらなかった。一九二五年には七〇万を越え、その八年後には一〇〇万に達した。世界一成長が早い都市といわれた。
 これが、邦人農業者を吸い寄せ続けた。
 農産物は作っても、作っても、市場が吸収してくれた。
 サンパウロ近郊、周辺地帯の邦人農業者の数は、大雑把な数字だが、一九三二年で三千家族といわれた。その後も増え続けた。
彼らの多くは組合に加入した。特にコチアへ…と、そういう次第である。

 マジック 独創

 こういう時勢の中で、コチアは他の産組に比較、伸びが際立って急であった。生産面での事業地域をドンドン広め、組合員を増やし、施設も次々つくった。
 ほかの産組は、その事業を一地域に留めていた。従って組合員や施設の増え方は、そう急ではなかった。
 因みに一九三九年になると、組合員数は、コチアは一、六〇〇人となっていた。他組合は数百人あるいは数十人であった。
 資本金もコチアは桁外れに大きく、これに次ぐ産組はコチアの六分の一でしかなかった。 
 (非日系を含めても、そうであったが)コチアの拡大ぶりはダントツであり、マジックを思わすものがあった。もとより、マジックには種というものがある。種…という言葉が不適当なら、独創といってもよいであろう。
 以下、主なものを記す。
 独創の一つは、産組理論の修正である。従来の理論では「一地域一組合」を原則とし「多地域に渡る問題は、連合会を組織して処理する」ことにしていた。
 一九三二年、ブラジルで産業組合法が制定された時も、原案には、そういう原則が盛られていた。
 が、健さんはそれを否定、 
 「ブラジルの場合、地方には取引市場がなく、殆どの生産物がサンパウロ、リオなどの大都市に運び込まれ、そこで販売され、地元での消費用分以外は、地方へ送られる。従って市場のない所に産組を作っても、有効な活動は行えない。
 連合会方式は理論的には正しいが、現実には屋上屋を重ねる結果になる。
 ブラジルでは、各組合が事業を多数の地域に広げて行くべきだ」と主張、政府に働きかけ、原案の内容を修正させている。
 彼は何事につけても、既存の理論というものを有難がったり、それに囚われたりすることはなかった。産組理論についても、平然と内容を組み換えてしまったのである。
 コチアが事業の多地域化を推し進め始めたのは、一九三四年に仲買人との抗争に勝利した翌年からのことである。

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