ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(102)

 古い組合員の中には、不満を持って、生産物の抜け売りをする者もいた。が、健さんは、その常連者は除名した。 
 独創の三は、販売面での共同計算制である。コチアに限らず産組は、出荷物は組合員別に販売をしていた。が、これであると、種々の不都合が生ずる。そこで生産物の等級づけを行い、共同販売を行うようにした。
 これは従業員が「カナダで成功している」と聞いて提案した。そういう意味では厳密には独創とは言いにくいが、具体的方法は自分たちで工夫したという。
そのほか、様々な独創を取り入れた。
 以上が、コチアを躍進させていたのである。

 若者への期待

 話は変わるが、健さんは早くから若者に期待、彼らに接近、戦力にしようとしていた。
 その初期の代表的事例は、外部から招いた人間でマノエル・カルロス・フェラース・デ・アルメイダというブラジル人である。普通、フェラースと呼ばれた。
一九三一年というから、コチア産組が生まれて未だ数年後のことである。 ある日、組合本部に一人の若い新聞記者が訪れた。ジアリオ・サンパウロ紙のフェラースであった。彼は、名門サンパウロ法科大学の学生でもあった。
 当時、産組制度の立法化が、準備されており、同紙の編集長がフェラースに、それに関する何らかの取材をしてくる様に指示した。フェラース自身も関心を抱いていた。そこでコチアを訪問したのである。
 その時のことに関して既存の資料類は、取材を受けた健さんが情熱的に産組論を説き、フェラースがそれに心酔、以後しばしば足を運ぶようになった…としている。が、これは果たして、どうであろうか?
 一九三一年というと、健さんは組合経営に悪戦苦闘していた時期であり、他人を、しかもブラジル人を心酔させる程、自信を持ってポルトガル語で話すことが出来たであろうか?
 しかし、健さんのボルテージの高さには若者を吸引する響きがあったというから、言葉は通じなくとも、感電したのかもしれない。
 年令は健さんが三十一、二歳、フェラースが二十一、二歳であった。
 二年後、フェラースは大学を卒業、弁護士となり、サンパウロ州政府に新設された産組奨励局の仕事に関わった。同時に、コチアの顧問弁護士にもなった。健さんが委託したのである。
 翌年起こったピニェイロスのバタタ取引市場での仲買人との抗争時は、このフェラースが奨励局とコチアに関係していた。健さんとしては、好都合であった。 
 さらに一九三八年、産組法が改正された時、健さんは(一九三二年の組合法成立時に続き)原案を修正させている。地域的な事業範囲をさらに拡大させたのである。前回は誰を介したかは不明だが、今回は当然フェラースを通じて交渉した筈である。
 健さんは、ブラジル人相手でも怯むことなくポ語を話したが、上手とはいえなかったという。デリケートで複雑、しかも法律の知識が必要な交渉ごとは、困難であったろう。代りがつとまる人材も、コチア内部には居なかった。
 フェラースは以後、健さんの片腕となってコチアのために尽くし続け、時にはその危機を救う。
 健さんはフェラースだけでなく、若手従業員や組合員の子弟にも、直接結びつこうとした。
 組合創立間もない頃のことである。若い従業員たちが本部の空き地にテニス・コートをつくってラケットを振り回していた。それを見た健さんは、早速仲間入りした。腕の方は、熱心なわりには上達せず、その強引なプレーぶりには、皆、辟易の体であった。ところが、当人は本格的なコート造りに乗り出すほどの打ち込み様であった。
 野球部もつくりバットを振った。山登りもした。

最新記事