マイゾウ・メーノス(まあーまあー)の世界ブラジル(1)=サンパウロ 梅津久

筆者(中央)の移住光景(1973年羽田空港
筆者(中央)の移住光景(1973年羽田空港

はじめに
 “ジェット機で移住”と書かれた横断幕の中、羽田空港からロスアンジェルスに一泊して、1973年7月5日、サンパウロのコンゴニアス空港に、飛行機移住第一便として24歳で技術移住してから、早いもので、41年が過ぎ去ってしまった。しまったと書いたのは、この間自分は何をしたのだろうという思いがあるからである。
 呼び寄せ企業であった、日系コロニア企業に2年半勤め、社長と気が合わず、半分けんか腰で退社し、すぐに仕事にありつけるだろうと思っていたものの、ブラジル語も良く分からない私に、そう簡単に就職できるはずがなかった。仕事が決まるまでの約半年間、妻の内職の仕事で何とか食い忍んで生活をした後に、日本からの進出企業の生産関連部門(製造、品質管理、生産管理、工場管理)の仕事に従事することができた。この間電子製品生産会社勤務時にサンパウロからアマゾナス州マナウス工業団地への工場進出に際し、第一便として転勤し工場を立ち上げサンパウロ工場の全製造部門の移転を行った、その後、当地でオートバイ生産会社へ転職した後、60歳で退職し、ブラジルでの35年間の勤続年数で年金生活者となり、傍ら、日本からマナウスへの新たな進出企業からの顧問としての招聘を引き受け、会社設立と工場の稼働準備と運営に携わり、後に同社社長職の任命を受け、72歳で退任し、36年間仕事を続けたマナウスからサンパウロに戻った。
 1978年には、日本の大学卒業技術士のヘヴァリダソン(資格認定)をサンパウロ大学で受け、正式にブラジル文部省の認証のもと、ブラジル電気技術者として技術者協会(CREA)に登録し、公式文書へのサイン権を取得し、ブラジル人エンジニヤーと同等に仕事が出来るようになっていました。
 仕事での出張や個人旅行で幾度となく日本に行く機会もあり、また日本から来られた数多くの人々と接触する機会もあって、最新の日本のニュース、技術情報に不足することはなかった。
 居住地としては、南米最大のサンパウロ市に約9年、ブラジル有数の日本コロニア移住地のあるモジ・ダス・クルーゼス市に約3年、ブラジル最大の工業団地を有すアマゾナス州のマナウス市に1984年から居住し、2020年にサンパウロ市に戻りました。旅行先としては、ブラジル国内で最南端はリオグランデ・ド・スル州のポルト・アレーグレから、最北端ホーライマ州のボア・ビスタまで、中南米では、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ペルー、ベネズエラ、メキシコ、パナマやキューバを訪れています。
これらの経験から得た、ブラジルに関する認識、知識を手記としてまとめてみました。まだまだ、先輩移住者の方々、ブラジルの知識をたくさん有している方達には物足りないかもしれませんが、私の人生の足跡として残し、またこれを読まれた方になんらかの参考になれば幸いです。
2021年1月25日 記

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